「日本サッカーを世界に近づけて欲しい」川崎元監督・関塚氏が将来に期待…ありがとう中村憲剛「14」の物語―2021年元日 川崎フロンターレを引退―

川崎の監督時代、シュート練習を行う関塚氏(左)と憲剛(09年10月21日)
川崎の監督時代、シュート練習を行う関塚氏(左)と憲剛(09年10月21日)

 J1川崎フロンターレのMF中村憲剛(40)が2021年1月1日の天皇杯決勝で18年の現役生活を終えた。憲剛と関わった人たちに、それぞれの憲剛を語ってもらう連載の第3回は川崎の元監督・関塚隆氏(60)。就任1年目の04年、入団2年目の憲剛をボランチにコンバートするなど飛躍のきっかけを作った。そのいきさつ、将来への期待などを明かした。(取材・構成 羽田 智之)

■ボランチコンバート

 フロンターレの監督に就任する時、ジュニーニョと我那覇和樹の印象はありましたけど、憲剛の情報はほぼ持っていなかったです。鹿島は03年シーズン、天皇杯準決勝に進んだので年末までコーチをしており、実際にプレーを見たのはチームが始動した時でした。身体の線は細いけど、テクニック、動きを止めないモビリティーがあり、判断が非常にスピーディーでした。プレーが連続して出来る。パスを出して、次動く。パスを受けにいき、出てこなければ、そのまま次のところに動ける。そういう印象を受けました。

 ボランチへのコンバートはシーズン前にトライしました。宮崎・綾町での1次キャンプから帰ってきたぐらいの時期だったと思います。当時、コーチ陣と話をしてシステムを3-4-2-1、3バックでスタートしようと決めました。1トップに我那覇がいて、2シャドーにジュニーニョ、マルクス、今野章、久野智昭、黒津勝がいました。当時J2は4回戦で44試合。憲剛もそこに割って入るだけのポテンシャルもあり、ポジション争いをさせる選択肢もありましたが、彼の前方向へのプレースピード、パススピードが素晴らしく、しかも、広角に強いパスが出せる。前でスペースを見つけて、ボールを受けるセンスも持っているから、前線の選手をうまく操れる。プレーメーカーとしての素養がありました。だから、「やってみないか」と提案したんです。「僕、守備できないですよ」なんて言っていましたが、彼からすごくチャレンジしたい意欲を感じたことを覚えています。

 コンバートは順調でした。選手たちとのコミュニケーションからも分かりましたが、ゲームを読む力はある。狭いスペースでターンできるので、それはボランチでもいかされた。前を向いて、どう縦パスを入れるか。そのためにもサイドを使う。縦と横の幅を使うセンスがある。攻撃に関して不安はなかったです。使えるな、と思ったのは5月ぐらいだったと思います。ゴールデンウィークぐらいにレギュラーをとったと記憶しています。当時、対戦相手は、フロンターレに対して8枚ぐらいのブロックを作って守ってきた。それをどうこじ開けて点を取るか。彼のパスセンスがポイントになってきていたので、憲剛とはそのあたりをよく話しました。あと、守備のところ。攻から守の切り替えのところで、そのままプレッシャーに行くのか。どの位置に戻るのか。スイッチを入れる、パスコースの切り方など前への守備のセンスはあったけど、後ろへのディフェンスはウィークでしたので、ゲーム形式の練習などで、ディフェンダーとの連係を作っていきました。

■地域で愛される選手

 間違いなくJ1でレギュラーをはれる選手だと思っていました。生え抜きの選手が活躍し、地域で愛される。当時のフロンターレはそういう選手を作ることが大事でした。常日頃、武田信平社長(当時)、福家三男さん、庄子春男さんからそういう話を聞かされていました。自分も鹿島で、そういう選手を見てきた。柳沢敦、平瀬智行、本山雅志、小笠原満男、中田浩二、曽ケ端準らがそう。鹿島時代、スカウトの平野さんから、預かるんだからプレーも人間性もしっかり頼むぞと言われた。フロンターレでもそういうことは意識しました。

 伊藤宏樹をキャプテンにし、憲剛がゲームキャプテンを務める期間が長かったです。彼らはすごくいいコンビでした。何でも話せる間柄で、チームのことをすごく考えていた。2人で方向性を打ち出せもした。武田さんを筆頭に、地域に密着したクラブを作ってきた歴史があります。企画を考える天野さんもいた。2人は、そういう地域密着の意識を持ち、選手をまとめてくれた。井川祐輔もいいキャラクターで貢献してくれました。1年、1年積み上げていってくれた。私が監督になった当初、等々力陸上競技場の観衆は5000人を下回った時もありましたけど、優勝争いした時は1万5000人以上入ってくれた。うれしかったです。昨年はコロナ禍でしたが、最近のスタジアムの雰囲気はすごくいいですよね。

  • 川崎の監督時代、中村憲剛(右)を指導する関塚氏(09年3月3日)

    川崎の監督時代、中村憲剛(右)を指導する関塚氏(09年3月3日)

■オーバーエージ候補

 憲剛にキャプテンをやってもらわなかったのは、チーム状況も大事だけど、自分のプレーを確立して欲しいと思ったからでもあります。オシムさんに初めて日本代表に呼ばれた当時、同世代には、中村俊輔、小野伸二、遠藤保仁、小笠原ら中盤にタレントはたくさんいた。そのなかで、どうやって憲剛がスタイルを作っていくか。これはクラブとしても確立していかないといけなかった。岡田武史さんが代表監督だった時、憲剛のことを話しました。彼の最大のストロング、最も適しているポジションなどを話し合いました。あの攻撃的なセンスをどこで生かすのか。ジュニーニョ、我那覇、テセ、黒津への縦パスについては、成功例を持っていて、経験値も上がっていた。それは代表でも生きましたよね。岡崎慎司とはものすごく合っていたと思います。

 もちろん、ロンドン五輪のオーバーエージ枠に憲剛も考えました。私を一番よく知っている。オリンピック経由ワールドカップと言うけれど、里内フィジカルコーチ、小倉コーチらワールドカップを経験したスタッフと話すなかで、オリンピックも結果を求められる年代だよねという認識になりました。そういうチームにしないといけない。結果を残すという方向にシフトを変えた。そのために誰が必要になるかと考えた時、憲剛というのはありました。ただ、オリンピックチームの事情などをふくめ、総合的に判断して編成しなければならず、ほかの選択になりました。

■小笠原との共通点も

 私は憲剛と小笠原を常に比較して見ていました。2人とも攻撃を操る、プレーメーカーとしての才能がある。ゲームを作る能力。憲剛はより鋭さを持っていた。小笠原は守備の強さがあった。そういう違いはあるけど、絵を描ける選手たち。ゲームを託せる、そういう存在だったと思います。成長に携われたのは指導者として幸運でした。憲剛が筆頭だけど、寺田周平、伊藤宏樹、谷口博之、森勇介、村上和弘もそう。引退の連絡をもらいましたし、それはうれしかったです。

 憲剛から引退の報告を受けた時、これからの話も少ししました。フロンターレとの関わりを持ちながら、世界を広げていきたいと言っていた。幅を広げたいと。小笠原と同じようなことを言っているなと思いました。憲剛は川崎市、神奈川県に貢献しただけでなく、全国の子供たちにものすごく影響力があるプレーヤーとして活躍してきた。日本サッカーは世界に追いつこうと頑張っている。彼も力を発揮して世界へと近づけてもらいたいと思う。それは一足飛びにはいかない。どのカテゴリーから始めるのかということもあるでしょう。自分で見つけて、素晴らしい第二の人生を歩んでいって欲しいです。

 ◆関塚 隆(せきづか・たかし)1960年10月26日、千葉県生まれ。八千代高から早大に進学。84年、本田技研入り。ストライカーとして活躍。91年に現役を引退した。早大ア式蹴球部の監督、鹿島コーチなどを経て、2004年に川崎の監督に就任。09年まで指揮し、強豪クラブの仲間入りに尽力した(08年はシーズン途中に体調不良で退任し、翌年復帰)。12年のロンドン五輪では、U―23日本代表監督を務めて4強入り。磐田、千葉などを指揮した後、18年2月に日本サッカー協会のS級指導者ライセンス講師、地域統括ユースダイレクターに就任し、同年4月から技術委員長を務めた。20年3月、ナショナルチームダイレクターとなり、同年11月に退任した。

川崎の監督時代、シュート練習を行う関塚氏(左)と憲剛(09年10月21日)
川崎の監督時代、中村憲剛(右)を指導する関塚氏(09年3月3日)
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