1回目で書いた通り、掛布の入団に私が一枚かんでいたのは事実です。入団後もコーチ、監督として間近で彼を見続けました。そんな、テストに近い形で入団したカケが、なぜ「ミスター・タイガース」にまで上り詰めたのか。今回はその秘密の一端を紹介します。
1974年の安芸キャンプ。新米内野守備コーチの私はカケとドラフト1位の佐野仙好の新人2人をセットにして、クール最終日の特守で1人300球を越えるノックの雨を降らせました。途中からノッカーが交代しても、受ける2人は音を上げませんでした。この練習はカケがレギュラーになってからも続けられ、キャンプの名物になりました。新人2人には公式戦の試合前の練習でも、チーム1時間の練習の50分をノックに費やすなど守りを徹底的に鍛えました。
そんなカケの人生を決定づけた試合があります。74年3月21日のオープン戦、太平洋戦(鳴門)です。藤田平が自身の結婚式で欠場、新人のカケにスタメンのチャンスが巡ってきました。その試合で2安打。24日の近鉄戦(日生)では、何と4打数4安打を打ちました。藤田平が欠場しなければ、スタメンはなかったかもしれません。しかし、その試合で2安打していなければ3日後のスタメンはなかったでしょう。運を生かしたのはカケの力です。2軍でじっくり育てる方針だった金田正泰監督も「1軍に置く」と言い出しました。
控えでいる試合中のベンチで、グラブに入ったボールをすぐ右手に持ち替えて送球に入る練習を1年間続けました。「虎風荘」では砂が入ったビール瓶に中指を入れて振ってリストを鍛えていました。
結局、1年目は83試合に出場して162打数33安打、3ホーマーの成績を残しました。翌年、1年目よりひと回りもふた回りも大きくなってキャンプに入ってきた時の驚きは、今でも忘れられません。
レギュラーになってからも、遠征先のホテルの駐車場で夜中まで1人でバットを振っているのを何度も目撃しました。プロ意識、日々の努力…。掛布という偉大な選手は才能だけで作られたわけではないのです。
最近、オフになると食事に誘ってくれます。もちろん、私はゲスト。若い頃に受けた恩を忘れない義理堅さに「昭和の男」を見る思いがします。
さて「掛布」と来れば、お次はバース。次回からは史上最高の助っ人獲得までの裏話を―。(スポーツ報知評論家)
◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。81歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。
※第3回は2月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。