タスキを渡し忘れた父とタスキをかけることができなかった息子 松葉和之(亜大OB)、慶太(青学大4年)親子の箱根駅伝物語

スポーツ報知
箱根駅伝を戦い抜いた松葉和之さん(右)・慶太親子(写真提供=松葉家)

 1990年。第66回箱根駅伝で歴史的な「珍事件」が起きた。

 亜大の6区・田中寛重さん(当時1年)が駅伝の“象徴”とも言うべきタスキを忘れてスタートしてしまった…。約50メートル走ったところで気づき、付き添いを務めていた先輩の松葉和之さん(当時3年)が渡し忘れていたタスキを掛け直して再スタート。箱根の山を懸命に下った。

 田中さんの回想を基に「タスキ忘れ事件」を再現する―。

 1990年1月2日、往路は大東大が完勝した。2位の山梨学院大と4分10秒の大差。下位校との差はさらに大きく、8位以下が10分以上の差をつけられた。当時の出場枠は15校。半分以上の8校が復路は一斉繰り上げスタートとなった。亜大も往路14位と苦戦し、復路一斉スタート組だった。

 翌1月3日午前8時10分。「事件」は発生した。

 一斉繰り上げスタートの号砲とともに8校の6区ランナーがスタートした。亜大の巻き返しを託された田中さんは、芦ノ湖駐車場前から国道1号線に続く約50メートルの取り付け道路を走り始めた時、違和感を覚えた。

 「何かおかしい。なぜだろう。タスキがない!?」

 他校の7選手が左折し、国道1号線を小田原に向かい始めた時、1人だけUターン。血相を変えて戻ってきた田中さんに大会役員は「どうした?」と慌てて聞いた。

 「タスキがないんです!」

 タスキは…。前日の5区を区間14位で走り、この日の朝は、田中さんの付き添いを務めていた松葉の首にかかっていた。松葉さんは、田中さんが人混みをかき分けて向かってくる姿を見て、タスキを渡し忘れていたことに気づいた。松葉さんも田中さんに向かって猛ダッシュ。亜大の5区と6区のタスキリレーが、まさかの形で行われた。

 ただ、松葉さんがスタートラインの後方にいたのは不幸中の幸いだった。もし、スタートラインの前方でタスキの受け渡しを行っていたら、田中さんはタスキをつけずに走った区間が生じることになり、失格だった。タスキをつけてスタートラインを越えた田中さんは、約1分をロスして今度こそ小田原に向かって走り始めた。

 「タスキを忘れたことに気がついた時、一瞬、頭が真っ白になったが、松葉さんからタスキを受け取った時、不思議と冷静になれた。慌てるな、20キロ以上もある、じっくりロスタイムを取り戻そう、と思えた」

 白地に緑色の文字で「亜細亜大学」と記されたタスキをかけた田中さんは力強く箱根の山を上り、下った。約8キロで東農大、駒大を追い抜いた。

 しかし、後半、再びアクシデントが発生。左ふくらはぎがけいれんし、大幅にペースダウン。結局、1時間5分55秒で区間14位。13秒差で区間最下位を免れるのが精いっぱいだった。

 「設定タイムは61分だった。ロスタイムを入れても62分前後で走りたかった」

 6区で最下位に転落した亜大は、そのまま最下位で大手町にゴールした。レース後、田中さんを責めるチームメートは誰もいなかったという。3年生の松葉さんは1年生の田中さんに「申し訳ない」と頭を下げ、田中さんも「僕の方こそすみませんでした」と頭を下げた。

 それから31年。今、50歳になった田中さんは柔らかな笑みをたたえながら当時を振り返る。

 「前代未聞の失敗をしてしまいましたが、それでも、箱根駅伝を駆けた、という事実は私のよりどころになっています。多くの人に迷惑をかけましたが、高校時代の恩師、大学時代の監督、チームメートに感謝の気持ちでいっぱいです。最近、亜大は本戦から遠ざかっているが、陰ながら応援しています」

 話は、これで終わらない。

 実は、今年の第97回箱根駅伝で1990年の第66回箱根駅伝の出来事の「続き」があった。というより、ここからが本題だ。

 田中さんにタスキを渡し忘れた松葉さん(52)の長男・松葉慶太(青学大4年)が最終学年にして初めて登録メンバー16人入りを果たした。しかも、因縁の6区の候補選手だった。

 静岡・浜松日体高から入学した慶太は2年時まで、分厚い選手層を誇る青学大の中で存在感を発揮できずにいたが、3年秋から飛躍した。

 目の病気を患い、6~7月に入院。3か月、走ることができなかったが、復帰後、急成長した。原晋監督(53)は「まるで人が変わったように練習に取り組み、そして、強くなった。松葉の覚悟を感じた」と評価した。3年時の全日本大学駅伝で学生3大駅伝を通じて初めて登録メンバーに入った。結局、出番はなく、箱根駅伝では登録メンバーから外れたが、強豪チームの中で徐々に存在感を示し始めた。

 そして、迎えた最終学年。神林勇太主将(4年)を支える副将に任命された。4年時に5000メートルで14分4秒56、1万メートルで29分1秒07と自己ベストをマークした。

 全日本大学駅伝では2年連続で登録メンバー入り。しかし、またもや出番なし。残されたチャンスは箱根駅伝だけとなった。

 父・和之さんは息子にあえて厳しいゲキを飛ばしていた。「オレは凡走だったけど、箱根駅伝に出場した。慶太は出場して好走しろ」と。慶太の母・優子さん(52)の父・佐藤寿一さんも元箱根駅伝ランナー。福岡大が唯一、出場した1964年の第40回記念大会で4区2位と好走した。3代続けての箱根駅伝出場の期待もかかっていた。

 慶太は家族の期待を前向きに受け止めていた。昨年12月上旬、千葉県内で最後の強化合宿中、父や祖父への思いを笑顔を交えながら素直に明かしていた。

 「昔、父が箱根駅伝でやらかしたことは聞いています。箱根駅伝の大きさが分かってくるにつれて、父のやらかしっぷりも分かるようになりました(笑い)。祖父は僕が高校1年の時に亡くなりましたが、亡くなるまで、一番熱心に応援してくれていました。2人に僕がしっかり走っているところを見せたいですね」

 ただ、青学大のメンバー争いは過酷で、厳しい。6区に選ばれた選手は慶太ではなく、高橋勇輝(3年)だった。「松葉は区間5位くらいでは走れる計算が立っていました」と原監督は慶太の力を認めた上で続けた。「下りの走りだけなら松葉の方が上。でも、下りが終わってからの残り3キロを含めると、平地の走力がある高橋の方が上でした」と決断の理由を明かした。

 指揮官の見立て通り、高橋は58分13秒の区間3位と快走。青学大歴代でも小野田勇次(現トヨタ紡織)に次ぐ好記録だった。往路では12位と大幅に出遅れたが、高橋の快走によってチームは流れに乗り、復路優勝と総合4位を果たした。

 慶太は普段通りに明るく振る舞い、チームメートをサポートした。チームメートがだれもいない時、ひとり涙を流した。「箱根駅伝の直前、慶太から出場メンバーから外れた、という連絡がありました。涙ぐんだ声でした。私もつらかった」と和之さんは静かに話した。

 箱根駅伝に向けて戦っている時は「走れ」とゲキを飛ばしていた父は、戦いが終わった今「4年間、お疲れさま。4年間、楽しませてもらった。ありがとう」と息子をねぎらった。

 箱根駅伝の後、慶太の様子は、箱根駅伝前と変わっていたという。「晴れ晴れとした様子でした。やりきったということでしょう」と父はうれしそうに話した。

 松葉和之さんはタスキを渡し忘れ、松葉慶太はタスキをかけることができなかった。2人が望んだ結果ではなかったが、松葉親子は心のタスキをつなぎ、箱根駅伝を走り切った。(記者コラム・竹内 達朗)

スポーツ

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請