昨年7月に開幕する予定だった東京五輪・パラリンピックは、誰も予想できなかった新型コロナウイルス感染拡大のため、来夏に史上初の延期となった。過去の五輪ではハプニングや惨事など、見る者の気持ちを歓喜させたり、落ち込ませたりと、さまざまな“事件”が起きてきた。五輪史に残る1年の締めくくりに、現場にいた人の証言やスポーツ報知特派員の目撃談で、その光と影を振り返る。(取材、構成・久浦 真一)=敬称略=
近年の五輪閉会式といえば、さまざまな国・地域の選手が入り乱れるように和気あいあいと入場するのが定番だ。モデルとなったのが1964年の東京大会だった。
それまでは開会式と同様、国別に整然と入場していた。56年メルボルン大会で一度、国・地域関係なく入場するスタイルにトライした。だが、帰国した選手が多くて盛り上がらず、続く60年ローマでは元に戻った。64年10月24日、東京・国立競技場での閉会式の実況を行ったのが、元TBSアナウンサーの山田二郎(84)だった。
「それまでの大会の映像資料がなかったんですよ。当時は映画館でニュースをやっていて、五輪の開会式は流しても閉会式はやらない。だから、我々もそうだし、組織委員会の方に聞いても誰も分からない。進行表をもらったのですが、IOC(国際オリンピック委員会)のあいさつとかは書いてあったんですが、あとは『選手入場』としか書いてなかった。だから、ぶっつけ本番でしたね」
開会式を中継したテレビ局はNHKだけだったが、閉会式は他に民放全5局もそれぞれ放送した。山田は当時28歳での大抜てき。ゲストは、美空ひばりの「悲しき口笛」や淡谷のり子の「別れのブルース」などで知られる作詞家の藤浦洸(たけし)。夕闇が迫る中、各国の旗手が入場し、最後に日本の福井誠(競泳)が競技場に入ってきた。
「ワーッ、と大歓声が上がった。何の騒ぎなんだろうと見たら、(福井の後ろは)国別ではなくて、選手たちが混然として入ってきた。福井さんは外国人選手に騎馬戦のように担ぎ上げられているし、ランニング姿の選手もいるし、写真を撮ってる選手もいる。そこで『これは何なのでしょう』と言ったら、藤浦さんが『これがオリンピックです』とおっしゃったんです。あの人、やっぱり詩人だなと思いましたよ」
山田は予想もしない展開にモニター画面を見ながら、知っている顔を見つけては「〇〇さんいました」と必死に連呼するしかなかった。
「放送している感じじゃないんです。自分も一緒になって、興奮の中に入っちゃっているんですよ。後にも先にも、こういう実況はやったことがない。福井さんが担ぎ上げられていたのは、オリンピック精神から日本選手をたたえようという外国人選手の気持ちの表れだった。あれは良かったですね。藤浦さんも『いいね』を連発していました」
山田は72年札幌冬季五輪の閉会式の実況も行った。両五輪の閉会式を担当したアナウンサーは山田だけ。近年の閉会式には不満があるという。
「札幌は室内(真駒内スケート競技場)だったし、選手もあまりいなかったので、東京の時の感動はなかった。最近の五輪閉会式はショー的になりすぎていますね。完全にテレビ番組。聖火を消す前のイベントが長すぎて散漫な感じがします。終わってみて、何がポイントだったんだろうと。印象に残らないんです」
今年行われる予定だった東京五輪は1年延期になった。
「64年の時は戦後復興した日本を見てほしいという大会でしたが、今度の東京大会はそういうのがない。やる意義は何だろうと、ずっと考えてます。やる以上は成功してほしいし、やって良かったなという大会にしてほしいですね」
◆三島由紀夫 本紙に手記
64年東京大会では、今年死後50年を迎えた作家の三島由紀夫が、本紙に手記を寄せていた。閉会式は国立競技場で取材、10月25日付1面に原稿が掲載された。
「しかし何といっても、閉会式のハイライトは、各国旗手の整然たる入場のあとから、突然セキを切ったように、スクラムを組んでなだれ込んできた選手団の入場の瞬間だ。開会式のような厳粛な秩序を期待していた観衆の前に(旗手の行進のおごそかさは十分その期待にこたえていただけに)突然、予想外の効果をもって、各国の選手が腕を組み一団となってかけ込んできたときのその無秩序の美しさは比べるものはなかった」
三島の隣で取材していた元報知新聞の原口明(86)は、三島が何度も「いいね」と言うのを聞いたという。