イスラエル宿舎を武装集団が襲撃!五輪史上最悪の惨劇…目撃者が振り返る五輪事件簿

1972年9月6日付のスポーツ報知
1972年9月6日付のスポーツ報知

 昨年7月に開幕する予定だった東京五輪・パラリンピックは、誰も予想できなかった新型コロナウイルス感染拡大のため、来夏に史上初の延期となった。過去の五輪ではハプニングや惨事など、見る者の気持ちを歓喜させたり、落ち込ませたりと、さまざまな“事件”が起きてきた。五輪史に残る1年の締めくくりに、現場にいた人の証言やスポーツ報知特派員の目撃談で、その光と影を振り返る。(取材、構成・久浦 真一)=敬称略=

 1972年ミュンヘン大会中に起きたテロは、イスラエル選手団11人が殺害される五輪史上最悪の事件となった。9月5日早朝、パレスチナの武装組織「黒い9月」の8人がイスラエル選手団の宿舎を襲撃。選手ら2人を射殺し、9人を人質に立てこもった。

 日本選手の多くがこのことを知ったのは、同日夕方だった。バレーボール男子日本代表だった森田淳悟(73)=日体大名誉教授=が振り返った。

 「その日は西ドイツと試合をし、練習をして、選手村に帰ってきたのが午後4時頃。部屋にいたら6時頃、JOC(日本オリンピック委員会)本部の方たちが来て『部屋から出ないでください』と言ったんです。『何が起きたんですか』と尋ねたら『イスラエルの選手団にテロリストが入って、占領されています』と言うんで、慌てて100メートル先にあるイスラエルの選手村を見たら、こうこうと明かりがついていましたね」

 事件発覚は午前5時半頃。巡回中の警察官が、殺害されたレスリングのコーチを発見した。この後、武装集団はイスラエルに収監されているパレスチナ人らの解放を要求。テレビ局は午前6時半頃から生中継を始めた。日本はもちろん、世界中でその様子は放映された。だが、選手村の部屋にテレビはなく、インターネットもない時代。選手は全く情報がなかった。

 「空にはヘリコプターがバリバリと音を立てて、低空飛行している。その音は午後9時くらいには聞こえなくなりました。その後、松平(康隆)監督が監督会議から帰ってきて、武装集団は飛行場に向かった。明日以降、大会はどうなるか分からないが、日本側はやりましょうと提案したと話してました」

 この日の競技は午前中は行われたが、午後は中止となっていた。武装集団はエジプトへの脱出を要求。午後10時頃、人質とともにバスで出発した。だが、移動した空軍基地で警察官と銃撃戦となり、人質9人全員と警察官1人が死亡する惨事となった。

 「今思うと、警備は弱かった。選手村に入る正面ゲートもバッグの中を全部見るわけではなかったし、IDカード(身分証明書)はきちんとチェックしてるようではなかった。裏門から入る時はIDカードを見せるだけ。だけど、テロ後はボディータッチはやるし、突然厳しくなった」

 武装集団はフェンスを乗り越え侵入。目撃した警備員は“朝帰り”の選手と思い込んでいた。翌9月6日午前10時から、イスラエル選手団の追悼式が五輪スタジアムで行われ、8万人が集まった。国際オリンピック委員会(IOC)は臨時理事会で大会続行を決定。同日午後から競技が再開された。バレー男子で日本は初の金メダルを獲得した。

 「1日延びた影響はなかったですね。ミーティングでも試合に集中しようと。競技場はどこも半旗が掲げられ、選手村のイスラエル選手団の部屋の前には花がいっぱい置いてありました。こんなことは本当に本当に、二度と起きてほしくないと強く思いました」

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