日本テレビ系「笑点」の初代大喜利メンバーとして知られる落語家の林家こん平(はやしや・こんぺい、本名・笠井光男=かさい・みつお)さんが17日午後2時2分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去していたことが21日、分かった。77歳だった。葬儀・告別式は19日に近親者で営まれた。こん平さんは2004年8月に病に倒れ、翌年7月に難病の「多発性硬化症」であることを公表。再び高座に上がることを夢見ていたが、願いはかなわなかった。
オレンジ色の着物に、はつらつと明るい大声。両手を挙げて観客とひとつになる「1、2、3、チャラ~ン!」でお茶の間を沸かせた最後の「笑点」初代メンバー・こん平さんが、天国に旅立った。
関係者によると、こん平さんはここ数か月、体調を崩しがちだったという。コロナ禍ということもあり、家族以外との対面は控えており、弟子の林家たい平(56)も9月に会ったきりでの別れとなった。葬儀・告別式が営まれた19日は、くしくも「笑点」の年内最後の収録。たい平は葬儀には参列せず、師匠の死を他の大喜利メンバーにも悟られないほど気丈に振る舞っていたという。
こん平さんは04年8月、日テレ系「24時間テレビ」の生放送直後に倒れ、緊急入院。当初は声帯結節と診断されたが、05年に「多発性硬化症」であることを公表。体のしびれや発声障害などを起こす難病で、噺家(はなしか)の命である言葉が不自由に。大喜利の席もたい平に譲り、長い闘病生活に入った。
つらいリハビリの日々でも、笑顔は絶やさなかった。趣味が高じて87年に三遊亭小遊三(73)と結成した「らくご卓球クラブ」の練習には積極的に顔を出し、都電荒川線の車内を使用する「都電落語会」はライフワークに。昨年4月には初期の小脳梗塞で入院も、投薬で回復。同8月のパーティーでは元気な姿を見せていた。
1958年に「昭和の爆笑王」と言われた先代の林家三平さんに入門。66年、最年少の23歳で「笑点」の初代大喜利メンバーに選ばれるなど、若くして頭角を現し、「私のカバンには、まだ若干の余裕がございます」とお土産をねだるネタなどで40年近く、日曜の夕方を楽しませてきた。
80年に師匠が亡くなってからは、37歳の若手真打ちながら多くの弟弟子を引き取り育成。師匠の長男・こぶ平(現・正蔵)、次男・いっ平(現・三平)らを真打ちにするなど、一門の総領として強い結束力とともに“三平一門”を守り続けた。
降板直後は「笑点」を直視できない日々もあったというが、次第にメンバーの活躍を頼もしく思うように。番組が50周年を迎えた16年にスポーツ報知のインタビューに応じた際には「僕にとって『笑点』は人生そのもの。この先もどこかで『笑点』につながるよう努めていきたい」と語っていた。再び高座に上がって落語を披露するという願いはかなわなかったが、天国ではきっと5代目・三遊亭円楽さん(09年10月死去)、桂歌丸さん(18年7月死去)ら、かつてのメンバーと久しぶりの大喜利を楽しんでいるはずだ。
◆「笑点」初回放送時の大喜利メンバー 司会・立川談志、回答者・三遊亭金遊(後の小円遊)、林家こん平、5代目・三遊亭円楽、柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)、桂歌丸。当時の真打ちは談志、円楽のみで他は二ツ目だった。
◆多発性硬化症 脳や脊髄に炎症が起き、視力低下、手足の脱力・しびれ、めまい、排尿困難などを引き起こす。原因は不明で、厚生労働省が難病に指定している。患者は日本に約2万人。10代後半など若年層に発症例が多い。炎症がひけば、一般人と同じ生活を送ることができる。花粉症と同じように免疫病。