【追悼・木内幸男さん】オヤジの贈り物-石田ジュニアへ桑田さんから心の指導…84年夏決勝 取手二VSPL〈10〉

川和・石田翔太投手の力投を1面で報じる08年7月17日付のスポーツ報知
川和・石田翔太投手の力投を1面で報じる08年7月17日付のスポーツ報知

 オヤジが甲子園の優勝投手だと知ったのは、いくつの頃だっただろうか。

 お父さんってすごい人なのかも。そう気づいたのは小1の時だ。

 98年、オヤジはベイスターズの打撃投手だった。ハマスタに観戦に行くと、試合前にはベンチに入れてもらった。谷繁さんは笑顔で「石田さんの息子さん、翔太君って言うんだ」とマスクをかぶらせてくれた。フツーのファンができない特別な経験だった。

 野球をやれとは全く言われなかった。始めたのは小2の時。自分の意思だ。でも「素振りをしろ」とか言われたことはない。聞きに行くと、いろいろ教えてくれた。いつも遠くから見守ってくれていた。

 高校は神奈川の県立進学校・川和に進んだ。オヤジの影響もあったと思う。甲子園の優勝投手になっても、プロでは1勝止まりだった。横浜の裏方を務めていたけど、現実は厳しいと感じていた。だったら勉強も野球も頑張ろうと思った。

 僕が高校球児になると、たまに取手二の話をしてくれた。高1の冬だった。オヤジが直腸がんと知ったのは。驚いた。

 最後の別れは高2の夏。北神奈川大会の期間中だった。08年7月15日未明、病院に駆けつけると、意識はなかった。「ありがとう」とだけ伝えた。

 2回戦はその翌日だった。投げた方がオヤジが喜ぶと思った。霧が丘を相手に先発して5回途中まで4失点。あまりいい投球じゃなかったけど、勝てた。試合後のベンチ裏。一人で泣いた。

 オヤジは早大中退だった。僕は慶大や立大も受験したけど、早大にしか合格しなかった。試合に出たかったので、硬式ではなく準硬式に入部した。最速139キロ。2年からエースになった。

 その冬のことだ。早大大学院で学んでいた桑田真澄さんが、準硬式のグラウンドへ指導に来てくれた。

 「石田です。父が大変お世話になりました」

 「いろいろ大変だったよね。君のお父さんは、本当にすごかったんだよ」

 不思議な縁。オヤジが引き合わせてくれたのかな。

 桑田さんには投球動作に緩急をつけること、体重移動の方法を教えてもらった。力を入れずに球威が出るようになった。リーグ戦では1試合で14三振を奪ったこともある。東大戦だけど。

 オヤジの死から11年目の夏が来る。会社員になった今でも、大きな存在だ。野球ではかなわなかったけど、ビジネスのフィールドで超えられたら、と思っている。このオメガのスピードマスターは生前、愛用していたものだ。社会人になってから、ずっとつけている。

 今でもどこかで、見守ってくれている気がするんだ。野球を始めた、あの頃みたいに。(加藤弘士)=終わり。肩書きや年齢は18年5月の紙面掲載時=

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