オヤジが甲子園の優勝投手だと知ったのは、いくつの頃だっただろうか。
お父さんってすごい人なのかも。そう気づいたのは小1の時だ。
98年、オヤジはベイスターズの打撃投手だった。ハマスタに観戦に行くと、試合前にはベンチに入れてもらった。谷繁さんは笑顔で「石田さんの息子さん、翔太君って言うんだ」とマスクをかぶらせてくれた。フツーのファンができない特別な経験だった。
野球をやれとは全く言われなかった。始めたのは小2の時。自分の意思だ。でも「素振りをしろ」とか言われたことはない。聞きに行くと、いろいろ教えてくれた。いつも遠くから見守ってくれていた。
高校は神奈川の県立進学校・川和に進んだ。オヤジの影響もあったと思う。甲子園の優勝投手になっても、プロでは1勝止まりだった。横浜の裏方を務めていたけど、現実は厳しいと感じていた。だったら勉強も野球も頑張ろうと思った。
僕が高校球児になると、たまに取手二の話をしてくれた。高1の冬だった。オヤジが直腸がんと知ったのは。驚いた。
最後の別れは高2の夏。北神奈川大会の期間中だった。08年7月15日未明、病院に駆けつけると、意識はなかった。「ありがとう」とだけ伝えた。
2回戦はその翌日だった。投げた方がオヤジが喜ぶと思った。霧が丘を相手に先発して5回途中まで4失点。あまりいい投球じゃなかったけど、勝てた。試合後のベンチ裏。一人で泣いた。
オヤジは早大中退だった。僕は慶大や立大も受験したけど、早大にしか合格しなかった。試合に出たかったので、硬式ではなく準硬式に入部した。最速139キロ。2年からエースになった。
その冬のことだ。早大大学院で学んでいた桑田真澄さんが、準硬式のグラウンドへ指導に来てくれた。
「石田です。父が大変お世話になりました」
「いろいろ大変だったよね。君のお父さんは、本当にすごかったんだよ」
不思議な縁。オヤジが引き合わせてくれたのかな。
桑田さんには投球動作に緩急をつけること、体重移動の方法を教えてもらった。力を入れずに球威が出るようになった。リーグ戦では1試合で14三振を奪ったこともある。東大戦だけど。
オヤジの死から11年目の夏が来る。会社員になった今でも、大きな存在だ。野球ではかなわなかったけど、ビジネスのフィールドで超えられたら、と思っている。このオメガのスピードマスターは生前、愛用していたものだ。社会人になってから、ずっとつけている。
今でもどこかで、見守ってくれている気がするんだ。野球を始めた、あの頃みたいに。(加藤弘士)=終わり。肩書きや年齢は18年5月の紙面掲載時=