明治・大正・昭和・平成・令和、時代を映して148年 報知新聞創刊50000号…報知とその時代

1876年、3代目歌川広重によって描かれた両国薬研堀時代の社屋の錦絵(郵政博物館収蔵)
1876年、3代目歌川広重によって描かれた両国薬研堀時代の社屋の錦絵(郵政博物館収蔵)
報知新聞の歩み
報知新聞の歩み

 報知新聞は、1872(明治5)年6月10日、「郵便報知」として創刊以来、18日で紙齢5万号を迎えた。明治・大正・昭和、そして平成・令和と148年間、時代を映す鏡として生き続け、現在は「スポーツ報知」として、さまざまなジャンルで情報を発信、喜怒哀楽を読者と共有している。

 【報知とその時代】

 ▽政論、政党新聞の時代

 二つ折り半紙をとじた木版手刷りの郵便報知新聞第1号が世に出たのは1872(明治5)年6月10日。維新の変革の中、江戸から東京と名を変えた首都が、欧米の強い影響を受けながら繁栄の道をたどりつつある最中だった。

 電信が東京―大阪間に開通し、郵便が全国に施行され、待望の鉄道が“汽笛一声”新橋―横浜間に開通。情報伝達が速やかになり、大衆も新しい情報を求めた。それに応じるように全国に新聞が発刊された。そんな、維新の情報革命の起点となったのが、この年だった。

 「報知」は当時の駅逓頭(えきていのかみ=後の郵政大臣で現在の総務大臣)・前島密のアイデアと支援で生まれた。政府の布告、人事、それに全国の郵便組織を通じて集めた地方ネタの報道が特色だった。その後、自由民権運動が活発になると、有力な政論紙として評価され、当時の言論思想界の主導的役割を果たした。西南戦争時は犬養毅の生々しい現地報道が読者の評価を高めた。「明治十四年の政変」で政府を追われた大隈重信は「改進党」を結党。報知はその機関紙となり、犬養、尾崎行雄が論説陣に加わった。

 ▽大衆路線への展開

 明治も後半に入ると、編集や経営に新しいアイデアを打ち出した。本邦初といわれる女性記者・松岡(後に羽仁)もと子が報知から誕生。その後、NHK連続テレビ小説「はね駒」の主人公のモデルにもなった磯村春子も在籍した。

 編集には「探偵部」ができた。元刑事が探訪記者≠今の取材記者となり、事件となると警察に先行する働きを見せた。「臨時探偵部」も設けられ、大きな事件に取り組んだ。現在の遊軍である。特筆されるのは「職業案内」だ。後の案内広告の元祖で、調査機関「安信所」が設けられ、そこに地方読者が安心して買い物ができる買い物部もできるなど、新聞と読者のつながりを深める企画が続々と発表された。

 一方で催しも派手に展開した。花火大会、菊花大会、自転車競争、東京市の中等学校野球大会などを通じて「報知」の名前は全国に広がった。洪水が発生すれば被災者救済にも乗り出す。文字通り庶民と共に生きる新聞だった。

 ▽社運隆盛 東洋一を誇る

 大正に入ると、報知新聞は絶頂期を迎えた。第1次世界大戦、そして関東大震災は新聞各社の命運を左右した。

 大戦は新聞を発展させた。戦況報道、各国の外交戦、ロシア革命、対中国外交などが国民の身近の問題となったのである。報知もこれに対応して報道に万全を尽くし、発行部数は大戦末期には東洋一(約30万部)を誇るに至った。

 1923(大正12)年9月1日の関東大震災は新聞界の地図を変えた。東京の日刊紙17のうち、被災を逃れたのは報知と東京日日、都の3紙。被災は免れたものの、印刷用紙の確保には頭を痛めたが、かねて欧米に発注してあった用紙3000トンが横浜に入港。震災前に36万部といわれた部数は翌24年正月には72万部と倍増した。

 この時代前半は相次ぐ記事削除、発禁処分を被りながら、藩閥・元老・官僚政治に抵抗、「独立不羈(ふき)」「不偏不党」を社是に論陣を張り、大衆の支持、信頼を獲得してきた。さらに、これまでも力を入れてきた大相撲報道への工夫、駅伝、マラソン、自動車レースの創設など、事業にも意欲的なアイデアを打ち出し、実行した努力が実った。

 ▽激動昭和 運命の新聞統合

 昭和前期の20年間は激動の時代だった。報知は文化、娯楽、スポーツなど幅広い分野にわたって、読者に夢の企画を打ち出した。失敗に終わったが、太平洋横断飛行計画は国民の期待を集め、国際的関心も呼んだ。

 一方で紙面からは政府批判の色が次第に影を潜め、“国策協賛・推進型”へと変貌した。戦局が深まるにつれ、政府は一県一紙の新聞統合を行った。共同販売制が実施され、部数拡張の競争も失われた。印刷用紙も政府の割り当てとなった。

 報知もまた、この新聞統合という大きな網の中に取り込まれた。「読売新聞」との合併である。1942年8月5日のことだった。1872(明治5)年創刊以来、日本近代化の担い手を自負していた「報知新聞」は、その伝統を「読売報知」の題号に託すことになった。

 ▽朝刊スポーツ紙に転換

 長きにわたった大戦が終わり、本紙は4年4か月ぶりに「報知新聞」として復活した。一方、世の中を見ると、復活したプロ野球をはじめ、“フジヤマの飛び魚”水泳の古橋広之進の活躍が、明日への希望をともし、日本再建への道を歩ませる力を後押しした。そのような情勢の中、「報知新聞」は朝刊スポーツ紙への転換を決断する。これは、将来予想される新しい形の新聞の先駆者たらん―という、崇高な考えから、だった。

 スポーツの中に“人間ドラマ”を見いだし、単なる数字の記録や技術の解説、評論ではなく、そこに至る選手の心理的葛藤を紙面で再現しようと努めた。折から、NHKや民放テレビの開局も重なり、スポーツは“する”から“見る”へ、さらには“読む”へ、ファン層はグングン拡大した。

 1959年には念願の平河町新社屋を建設。64年2月には大阪進出を果たし、アジア初の五輪となった東京五輪においては、世界のマスコミ相手に一歩も引けを取らない報道戦を展開、報知の声価は高まった。

 ▽スクープ連発 100万部突破

  • 64・11・26付紙面
  • 64・11・26付紙面

 「長島選手婚約 五輪が結んだ恋」―。1964年11月26日の報知新聞第1面は、この躍るような大見出しと、長島選手と東京五輪コンパニオンだった西村亜希子さんが並んだ写真で飾られた。

 2人が初めて顔を合わせたのは、この年の10月17日。場所は東京・紀尾井町のホテルニューオータニ。本紙の五輪企画「ON五輪をゆく」の座談会で顔を合わせた。長島選手の一目ぼれ、だった。

 巨人軍、いや、プロ野球界最大のヒーローは結婚適齢期にあり、その婚約は皇太子妃決定に次ぐビッグニュースとしてマスコミ各社が狙っていた。報知には4人からなる特別取材班がつくられた。ひそかに交際を深めていった長島選手は、11月25日にプロポーズし、亜希子さんの承諾を得た。

 報知は最終版にこの特大スクープを入稿。情報漏れを防ぐため、レイアウト担当者に渡した原稿の2人の名前、住所は全く変えてあった。ゲラになった段階で本名を赤字として入れる念の入れようだった。

  • 65・5・19付紙面
  • 65・5・19付紙面

 プロボクシングのファイティング原田が日本で初のフライ、バンタム2階級王者となったことを1面で報じた65年5月19日付紙面で103万2629部を発行。初の100万台という大台に乗せた。

 この時代のスクープには「ボクシング・矢尾板貞雄引退」(62年)、「美空ひばり 小林旭と離婚」(64年6月19日付)などもあったが、69年10月8日付1面では、西鉄投手による公式戦八百長事件という、球界始まって以来の不祥事をすっぱ抜いた。

【注】「長嶋」となるのは、2度目の監督に就任した後、93年1月から。

 ▽質の高い報道で130万部連発

  • 76・10・17付紙面
  • 76・10・17付紙面

 昭和50年代に入っても、報知は質の高い報道を続けた。巨人では長島選手が現役を退き、監督に就任。75年は球団史上初の最下位に沈んだが、翌年は優勝。10月17日付1面は「長島巨人輝くV1」と横二段通しの赤凸版で、16ページ建て、記事面14ページのうち、5ページを巨人優勝に割き、131万9211部を発行する新記録となった。

  • 77・9・4付紙面
  • 77・9・4付紙面

 翌77年のハイライトは、王貞治の本塁打世界記録達成。ハンク・アーロンの持つ755号をついに超えたのが9月3日。対ヤクルト戦だ。翌日の紙面は「世界征服 王756」と創刊以来初めての三段通し大凸版が躍った。発行部数も134万7020部の新記録となった。

 その後、江川問題、巨人・青田昇コーチ舌禍事件、長嶋監督退任での風当たりは強かったが、81年の藤田元司監督率いる新生・巨人日本一では135万9510部という最高発行部数を記録した。

 この年からスタートした連載が「激ペンです」。白取晋記者が専任執筆し、巨人が勝てば「バンザイ」、負ければ地団駄を踏むファンの心情を紙面にぶちまけて、読者の共感を得た。主観むき出しの熱いコラムは、スポーツ紙ならではのもの。この後93年まで続く長寿コラムとなった。

 ▽新しい時代へ

 1982年の元日号は「長島報知入り」。80年のシーズンを最後にユニホームを脱いだミスター。無所属で1年を過ごしたが、報知入りのニュースは新年早々の大きな話題となった。翌83年8月15日付から「グリーンほうち」と題して1面の色刷り大見出しを緑に改めた。当時のスポーツ紙の色見出しは赤系統が多く、独自色を出すためだった。

  • 88・8・28付紙面
  • 88・8・28付紙面

 球界を揺るがす大スクープを放ったのが88年8月28日。1面で「ダイエー 南海を買収」と報じた。トレード、首脳人事などプロ野球のニュースは数多くあるが、経営権譲渡をすっぱ抜くのは、並大抵の努力ではなかった。

 翌89年1月7日。昭和天皇崩御。8日付1面には「平成」の新元号の文字が躍った。全16ページに昭和天皇関連記事を掲載。昭和は幕を閉じた。90年6月10日に30有余年、住み慣れた千代田区平河町から、港区港南の新社屋に移転。同年10月29日を限りに編集局も港南本社に移り、本社工場で初めて本格的なカラー紙面を発行。これまでよりもさらに面白い、ユニークな、美しい紙面作りを心掛けた。

 そして、時代は移り、「令和」に。令和を迎える紙面には、長嶋氏と吉永小百合という昭和からの大スターが登場。新時代の幕開けを祝った。

 【参考】主な新聞の号数は以下の通り(18日現在)

読  売     5万2101

毎  日     5万2045

朝  日     4万8291

日  経     4万8379

日刊スポーツ   2万6742

デイリースポーツ 2万5706

スポーツニッポン 2万5691

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