阪神ドラフト1位・佐藤輝明の軌跡<3> タイガースジュニア選出も右肘痛で1年間プレーできず

小学6年時にタイガースジュニアに選ばれた佐藤(両親提供)
小学6年時にタイガースジュニアに選ばれた佐藤(両親提供)

 26日の「プロ野球ドラフト会議 supported by リポビタンD」で、4球団から1位指名を受けた近大・佐藤輝明内野手(21)は抽選の末に阪神が交渉権を得た。関西学生野球リーグ通算最多14本塁打(1982年の新リーグ発足後)を樹立したアマ球界NO1スラッガーの軌跡をwebで連載する。今回は第3回。(取材、構成・伊井 亮一)

 佐藤は甲東小(兵庫・西宮市)1年の2学期頃から軟式の「甲東ブルーサンダース」で野球を始めた。同チームから初のプロ野球選手が誕生する。

 当初は右打ちだったが、父・博信さん(53)の勧めで、すぐに左打ちに変更した。練習では今でも右で打ち、大飛球を放つこともある。

 ポジションは投手や捕手で「めちゃくちゃ肩が良かった。小学3、4年の頃は盗塁はほぼアウトにしていた。6年生の時は23本塁打ぐらい打った。西宮の軟式チームの記録だった。体は大きくなかったけど、飛ばす力はあった。我が子ながら『すごいな』と思った」と、博信さんが驚くほどだった。

 6年時にプロ12球団本拠地周辺の学童が選抜され、プロとほぼ同じデザインのユニホームを着て争う軟式野球の「NPB12球団ジュニアトーナメント」のタイガースジュニアに選出された。だが、直後に右肘を痛めた。ヤフーD(現ペイペイD)で開催された同トーナメントでは、三塁ランナーコーチを務めただけだった。

 歯がゆい気持ちをおもんぱかって、博信さんが「投げることはできないけど、代打でちょっと打つぐらいはええんちゃうか?」と諭しても「治したいから出ない」と、一度も打席に立たなかった。「相当、つらかったと思うけど、僕ら以上に、彼は先を見ていたんだと思う。普通は出るじゃないですか」と、博信さんは佐藤の英断に感服する。

 当時を振り返り、佐藤は「早く治したかったから」と、理由を明かした。11年後に再び縦じまのユニホームに袖を通して“初打席”を迎えることになるが、博信さんは「暗黒の時代だった。僕らの方がショックを受けた。野球ができなくなるかもしれない」と、不安に襲われていた。母・晶子さん(48)は「漢方がいいと聞けば、漢方をのませた」と、あらゆる治療法を探した。

 中学では硬式野球チームに入団することを希望していたが、肘の状態を考慮して、甲陵中の軟式野球部に進んだ。部活動に参加していたものの、投げることはできず、中学1年の終わりに、ようやくプレーを再開することができた。完治に丸一年かかった。佐藤は右肘を痛めた経験から、弟の悠くん(9)に「投げすぎるな! 小学校のときはそんなにせんでええねん」と、助言しているという。

 中学時代は、同学年で同じ西宮市の報徳学園中の野球部員だった佐藤直樹(現ソフトバンク)とも対戦した。「打撃センスはあるなと思っていたが、体も小さかったので、そんなに大活躍というわけでもなかった。本塁打はたぶん1本も打っていない。その時はプロになれるとは想像できなかった」と、博信さんは回顧した。

 けがをしている間は、遊びでやっていたサッカーに夢中になった。「高校でもサッカーをしようかなと思った。点を取るのが楽しかった。割とできる自信はあった」と、今では考えられないような“岐路”に立っていた。

=第4回は30日の午後5時に配信予定=

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