第一回ドラフト会議が行われた日に蔭山和夫氏が急死…その後のプロ野球界の流れが変わった日となった

1965年11月18日付報知新聞1面
1965年11月18日付報知新聞1面

 今年もドラフト会議の日が来た。契約金抑制の意味合いもあって米大リーグより約半年遅れでスタートした第1回は1965年11月17日、日比谷の日生会館で開催された。

 巨人が1巡で甲府商の掘内恒夫、近鉄が2巡で育英の鈴木啓示と2人の殿堂入り選手が指名されたが、ほかにも東京2巡が銚子商・木樽正明、中日4巡に岡山東商・平松政次(入団拒否)、阪神2巡に市立和歌山商・藤田平、阪急4巡に習志野・谷沢健一(拒否)、西鉄4巡には高知商・江本孟紀(拒否)ら豪華絢爛。ベビーブームの1947年世代の選手たちが指名された。

 そんな11月17日、実はその後の日本プロ野球の歴史を変えたというある人物の急死というニュースもあったのは意外と知られていない。

 南海ホークス(現福岡ソフトバンク)の鶴岡一人監督は、1965年に日本シリーズ敗戦の責任を取って辞表を提出し他球団移籍を模索していた。ヘッドコーチだった蔭山和夫も辞表を出すと、慌てた球団は監督昇格を条件に慰留に務めた。

 蔭山からの諸条件に対して球団は、他球団の指揮を執る方向だった鶴岡を交えて協議したとも言われる。揉めに揉めた結果、11月13日に監督就任が発表された。ところが、自らの進退で悩み続けてブランデーや睡眠薬を飲み続けたのがたたってか、蔭山は4日後の17日に38歳の若さで急死したのだ。

 蔭山急死によって、東京オリオンズ(現千葉ロッテ)かサンケイスワローズ(現東京ヤクルト)の監督就任が濃厚だった鶴岡が急転、残留することになった。

 もし、蔭山が急死せずにホークスを率いていたら、鶴岡も他球団を指揮し球界地図は大きく変わっていたことだろう。野村克也も評価していた人物だけに、ホークスのその後の急激な凋落もなく、阪急ブレーブスの黄金時代も、もっと先になっていたかもしれない。そして1970年野村兼任監督誕生も遅くなって、同氏のその後の野球人生も様変わりしていたのではなかろうか。

 蔭山は早大出身の好守の内野手として活躍、南海ホークスに入団すると2年目の1951年にはリーグ打率2位の3割1分5厘をマークし特例で新人王。ホークスの「100万ドル内野陣」の内野陣の一人として活躍。三塁手としてベストナイン受賞2度、3年連続4度の三塁打王など全盛期は5シーズンだったが10年間プレーした。その後はコーチとして鶴岡一人監督を支え、1962年ホークスが最下位に沈み鶴岡監督が休養した5月には、代行として采配を振るい34勝18敗2分けの好成績を残して再び“親分”にバトンを渡している。

 1990年代以降の野球殿堂の競技者表彰(現在のプレーヤーズ部門)投票には亡くなった途端に“お涙ちょうだい当選”が少なからず見られるが、蔭山は途中5位の得票を得たことはあっても殿堂入りすることはかなわなかった。時代が悪かったとしかいいようがない。翌年3月12日に、大阪球場での巨人とのオープン戦が蔭山追善試合として行われ、同日の収益金約500万円が遺族に送られた。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)=敬称略=

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