審判をも欺いたヤンキースのホワイティ・フォード氏死去…ワールドシリーズ投手記録をほぼ独占した名左腕

1955年の日米野球でヤンキースの一員として来日したフォード氏(右)。左から杉下、コンスタンティ、別所、フォード
1955年の日米野球でヤンキースの一員として来日したフォード氏(右)。左から杉下、コンスタンティ、別所、フォード

 また、名投手がこの世を去った。トム・シーバー、ボブ・ギブソンに次いで、ヤンキース史上最多の通算236勝(106敗)をマークし、ワールドシリーズでは通算10勝の記録保持者である左腕のホワイティ・フォードさんが8日(日本時間9日)、91歳で亡くなった、とヤンキースが9日(同10日)、発表した。アルツハイマーを患っていたとされる。

 フォード氏は1950年にメジャーデビューすると9勝(1敗)でリーグ優勝に貢献。その年のフィリーズとのワールドシリーズ第4戦で当時歴代2番目の若さだった21歳351日で先発。9回2死からの左翼手の落球で2失点となって完封がフイになったが、デビュー戦を勝利で飾った。

 1951、52年と2年間は朝鮮戦争のため兵役に服していたが、1953年に復帰すると3度のリーグ最多勝を含め13年連続2ケタ勝利をマーク。1961年には25勝を挙げサイ・ヤング賞にも輝いている。1950年を含め11度ワールドシリーズにも出場し6度の優勝に貢献。10勝、146投球回、22先発、94奪三振のほか、33回1/3連続無失点とワールドシリーズの投手記録の多くはこの左腕が持っている。1961年のシリーズMVPにも選ばれている。

 1967年に現役引退したが、通算勝率6割9分は、近代野球の通算200勝以上投手では史上最高記録。1974年にチームメートだったミッキー・マントルと共に野球殿堂入りを果たし、同年には背番号「16」がヤンキースの永久欠番となった。ちなみにデビュー年は現在、田中将大投手と同じ「19」を着けていた。

 178センチと米大リーグでは小兵の部類に入るが、スリークオーターから多彩な変化球を武器にし、またつばを付けたり、ベルトのバックルで傷を付けたりしてボールを微妙に変化させるなど、審判に見つかれば不正投球とされる手口も使ったと、後年告白した“技巧派”でもあった。

 ニューヨークで生まれ育ったフォード氏は1950年代半ば、マントル、そして後に監督として有名となるビリー・マーチンらと夜の街を遊び歩いて、当時のケーシー・ステンゲル監督にとっての要注意人物でもあった。その反面、ステンゲル監督からの信頼は厚く、強豪相手にはほとんどフォードを投げさせたと言われている。

 1955年には日米野球で来日。4試合に登板し2勝し、日本のファンにも巧妙なピッチングを披露。10月30日の全日本戦では2度けん制で走者を刺すなど、ボークすれすれの牽制球にも定評があったという。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)

コラムでHo!とは?
 スポーツ報知のwebサイト限定コラムです。最前線で取材する記者が、紙面では書き切れなかった裏話や、今話題となっている旬な出来事を深く掘り下げてお届けします。皆さんを「ほーっ!」とうならせるようなコラムを目指して日々配信しますので、どうぞお楽しみください。

野球

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS ショップ報知 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真販売 法人向け紙面・写真使用申請