“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー<19>「1984年9月、新日本プロレス退団。今、明かす理由とは…」

アントニオ猪木(下)と対決する長州力
アントニオ猪木(下)と対決する長州力

 1980年代前半に初代タイガーマスクと激闘を展開し“虎ハンター”と呼ばれた小林邦昭氏(64)が2000年4月21日に引退してから今年で20年となった。1972年10月に旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。タイガーマスクとの抗争、全日本プロレスでは三沢光晴の2代目タイガーマスクと対戦、さらに平成に入ってからは新日マットで反選手会同盟、平成維震軍で活躍した。WEB報知では、「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」と題し、記憶に残る名選手のレスラー人生を辿る連載を展開する。第19回は「1984年9月、新日本プロレス退団。今、明かす理由とは…」(福留 崇広)

 1983年8月。最大の宿敵だったタイガーマスクの引退で喪失感に陥った小林は、1年後の84年9月、新日本プロレスを退団する。新たに闘う場所は、最大のライバル団体であるジャイアント馬場の全日本プロレスだった。

 「新日本を辞めたのは闘う相手がいなくなったからです。それを僕は全日本に求めたんです」

 退団した経緯は、前年に「クーデター事件」と呼ばれる社内の権力抗争を受け新日本プロレスの営業部長を務めた大塚直樹が退社し新たに「新日本プロレス興行」を設立した。この会社は、全日本の興行も手がけることになり84年8月26日の田園コロシアム大会を主催し、馬場と接近。その流れで維新軍団として新日本マットを席巻していた長州力に声をかけ、長州が退団を決断し結果、同じ維新軍団として行動を共にしていた小林ら13人が長州に追随し9月20日の大阪府立体育会館を最後に大量離脱した。

 「僕が辞めるきっかけになったのは、クーデターが発端となったのは確かです。ただ、本当のところは、どこからどこまでが本当に動いていて、どこからどこまでが噂話で動いていたのかはわかりません。ただ、直接的な辞めた理由は、大塚さんからの誘いは関係ありません。あくまでも自分が求めている闘いが新日本からなくなったからです。佐山がいなくなって、もう相手がいませんでしたから、だったら、新しい団体を作って全日本へ目を向けてやってみるかっていう感じでした。それは、あの時点で長州も同じだったと思います。藤波さんとの試合も中だるみ的なところに来ていましたから、あれ以上やってもお客さんが望まなくなったと思います。自分の存在が新日本の中で浮いてきたように感じましたから、新しい流れと新しい相手に飢えていたんですね。そんな時に大塚さんが新しい団体を立ち上げることになって全日本に目が向いたんです。僕も長州も新しい相手を求めて、新天地でジャンボ鶴田、天龍源一郎、2代目タイガーマスクの方が魅力あるのかなと思いました。そこに新しい夢を感じたんだと思います」

 離脱した選手は、新たにジャパンプロレスを設立し、翌85年1月から全日本マットへ参戦する。アントニオ猪木に憧れてプロレスラーになった小林にとって猪木、そして新日本の最大のライバルである馬場の全日本へ映る事への後ろめたさはなかったのだろうか。

 「正直言って、あれだけ憧れて入った方ですから、辞めるときに猪木さんへの後ろめたさはありました。出て行く時もあいさつはしませんでしたから…今、思えば、礼儀知らずで自分はひどいもんですよね(苦笑)」

 1973年10月に17歳で入門した新日本プロレスを84年9月、28歳で退団した。プロレスラーになって11年目の秋。そして年が明けた85年、全日本プロレスに闘いの場を移した。(続く。敬称略)

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