山中慎介を救った「神の左」のパンチを受け続けたトレーナー

16年10月、大和トレーナーのパンチングミット。右手の下辺りは相手のあごを意識した部分で、山中から繰り返される正確なパンチの衝撃で、塗装がなくなってしまっている
16年10月、大和トレーナーのパンチングミット。右手の下辺りは相手のあごを意識した部分で、山中から繰り返される正確なパンチの衝撃で、塗装がなくなってしまっている

 手の平の下のあたりが極端に薄くなったパンチングミット。それを持つのは「神の左」と称される左ストレートを武器に、プロボクシングで輝きをきらめかせたWBC世界バンタム級王者・山中慎介が放つパンチを両手と体で受け続け、彼を練習で支えながらともにチャンピオンロードを歩んだ、帝拳ボクシングジムの大和心トレーナーだ。

 トレーナーは素早く角度や構えを変え、選手が様々なパターンでパンチを放つように指示や予測をしながら、その衝撃をミット越しに体で受け止める。

  • 山中の練習用グラブは左人差し指の拳の所だけが極端に薄くなっている。正確にピンポイントで、パンチを打ち抜く。それが「アイスピック」のような鋭さということになる

    山中の練習用グラブは左人差し指の拳の所だけが極端に薄くなっている。正確にピンポイントで、パンチを打ち抜く。それが「アイスピック」のような鋭さということになる

 相手のあごの先端をイメージしたミットの同じ所に正確に山中の拳が当たる。さらにピンポイントでヒットされるパンチの回数が積み重なった結果、ミット表面の塗装を薄くし、まるで穴が開くかのように薄くなったのだ。

  • 17年7月、大和トレーナーのミット。例の部分の損傷が、さらに大きくなっている

    17年7月、大和トレーナーのミット。例の部分の損傷が、さらに大きくなっている

 ミット越しにパンチを受ける大和トレーナーの手が、まるで「アイスピックのような鋭いもの」で刺されているような衝撃、と当時語っていたのを思い出す。

  • 練習で山中が思い切り踏み込んで放った左ストレートを受ける大和トレーナー。強烈な一発だった

    練習で山中が思い切り踏み込んで放った左ストレートを受ける大和トレーナー。強烈な一発だった

 大和さんは75年、神奈川の出身。フライ級日本ランカーのプロボクサーであった父・信也さんの影響で、12歳からボクシングを始め、94年に帝拳ジムからプロデビュー。サウスポーのボクサーとして98年に日本バンタム級王者となり、00年には東洋太平洋スーパーバンタム級王者に輝いた。現役引退後は映画俳優などタレント業も行ったが、06年から同ジムのトレーナーとなった。

  • 00年2月、東洋太平洋スーパーバンタム級王座を獲得、試合後に友人たちから胴上げされ笑顔を見せる

    00年2月、東洋太平洋スーパーバンタム級王座を獲得、試合後に友人たちから胴上げされ笑顔を見せる

 トレーナーとしてのキャリアのスタートは、06年にプロデビューした山中とほぼ同時となった。山中はプロボクサーとして自分の成功について悩み、その道を模索していた。

 デビュー2戦目から担当となった大和トレーナーは試合のインターバルの際、与えた言葉を復唱するように助言をした。周囲の声を聞く余裕が生まれ、そこから山中は覚醒。信頼関係も深まり、連続KO勝利といういい流れを2人で作り上げていった。後に世界王者となった岩佐亮佑との日本タイトル戦勝利でさらに成長できたのは、世界戦に向けてさらに追い風となった。山中が世界王者となってからは、勝負どころでは「(亡くなったジムメートの)辻(さん)がついている」、「(長男の)豪祐(くん)が見ているぞ!」と勇気を入れる言葉でコーナーから送り出した。

 私自身の中で、日本人世界チャンピオンから数々のベルトを奪っていった、中米のボクシング王国・メキシコのプロボクサーに対する興味が、80年代前半からとても高まっていた。

 私は88年から、後楽園ホールでボクシングの撮影を積み重ねた。そして91年、私はその秘密を知るべく首都メキシコシティーにある、メキシコの後楽園ホールというべく「アレナ・コリセオ」という毎週興行が行われていた会場で、長年待望の試合を単身観戦した。試合の勝敗をめぐり賭けが行われるという、とても危険な雰囲気の漂うその場所では日本とは明らかに違うボクシングが展開されていた。

  • 91年10月、メキシコの試合会場。興奮したファンが物を投げても大丈夫なように、2階より上の客席最前列には、金網が設置されている(現在、同会場は取り壊されている)

    91年10月、メキシコの試合会場。興奮したファンが物を投げても大丈夫なように、2階より上の客席最前列には、金網が設置されている(現在、同会場は取り壊されている)

 当日はタイトル戦こそなかったものの、それはとにかく早い試合のストップであった。極力選手個人のダメージが残らないように優劣をつけて、主審が試合を早く終わらせるのだ。そのために次々と試合数が重ねられ、結果得られる経験値。それを多く積めるようにするためではないか、という印象が私には強く残った。

 大和トレーナーも在籍した横浜高ボクシング部の6年先輩にあたる、葛西裕一さん(元帝拳ジム所属のプロボクサー、その後は同ジムのチーフトレーナー、現在はボクシングフィットネスジム「GLOVES」代表)自身3度目の世界タイトル挑戦は、97年7月に行われた。王者アントニオ・セルメニョにKOで敗れ引退となった試合だった。最終12ラウンド、激しくダウンし後頭部をキャンバスに打ちつけてしまった葛西さんの試合後のリハビリについて、私は直接話を聞くことができたのだが、それは本当に壮絶なものだった。

  • 12年4月、強打者ビック・ダルチニャンを攻略し世界王座初防衛に成功。2人とも会心の表情を見せる

    12年4月、強打者ビック・ダルチニャンを攻略し世界王座初防衛に成功。2人とも会心の表情を見せる

 スポーツ選手が現役を終えた後の人生は、ボクシングに限らずとても大切である。グレート金山選手、辻昌建選手、彼らの現役最後の試合をリングサイドで撮影した私にとって、「早すぎる試合のストップ」という言葉はない。事実、彼らはリングで試合を終えた後、尊い命を失ったのである。

 17年8月、世界王座連続防衛の日本記録がかかったタイトルマッチ。ゴッドレフトの前には最強の挑戦者、ルイス・ネリがメキシコから現れた。

  • 16年9月、アンセルモ・モレノとの再戦を見事TKOで完全決着。山中を肩車で祝福(実は2人とも号泣していた)

    16年9月、アンセルモ・モレノとの再戦を見事TKOで完全決着。山中を肩車で祝福(実は2人とも号泣していた)

 序盤、神の左は優勢に試合を支配しつつあったが、異様な興奮状態を垣間見せる相手の変則的な猛攻を受け、王者はバランスを崩しながら被弾をし始めた。その第4ラウンドの途中、セコンドから試合を止めるべくタオルが投入された。大和トレーナーが危険な相手のラッシュから、大きなダメージを受ける前に山中を救ったのである。

 ネリは非常に高い実力を持ちながらも、後日ドーピングの陽性反応が発覚。翌年3月のダイレクトリマッチでは大きくウェートオーバーと、日本のボクシングファン、競技団体、そして同じ条件で闘う約束を堅実に守った対戦相手を、2度も裏切った。ネリはボクシング王国である祖国にまでも泥を塗ったのだ。

 山中が挑んだあのV13戦から3年が過ぎた…。プロとしての資質が著しく欠落した相手に対し、大和さんと神の左の陣営は、実に日本人らしく潔く闘った。その清らかなボクシングの求道者に対し、私は今もなお改めて強い敬意を抱かずにはいられない。(写真部 堺 恒志)

16年10月、大和トレーナーのパンチングミット。右手の下辺りは相手のあごを意識した部分で、山中から繰り返される正確なパンチの衝撃で、塗装がなくなってしまっている
山中の練習用グラブは左人差し指の拳の所だけが極端に薄くなっている。正確にピンポイントで、パンチを打ち抜く。それが「アイスピック」のような鋭さということになる
17年7月、大和トレーナーのミット。例の部分の損傷が、さらに大きくなっている
練習で山中が思い切り踏み込んで放った左ストレートを受ける大和トレーナー。強烈な一発だった
98年6月、第57代日本バンタム級王座を初防衛(山中慎介は第65代の同タイトル王者)
00年2月、東洋太平洋スーパーバンタム級王座を獲得、試合後に友人たちから胴上げされ笑顔を見せる
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