“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー<1>「アントニオ猪木に一目惚れして新日本プロレス入門」

小林邦昭氏
小林邦昭氏

 1980年代前半に初代タイガーマスクと激闘を展開し“虎ハンター”と呼ばれた小林邦昭氏(64)が2000年4月21日に引退してから今年で20年となった。1972年10月に旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。タイガーマスクとの抗争、全日本プロレスでは三沢光晴の2代目タイガーマスクと対戦、さらに平成に入ってからは新日マットで反選手会同盟、平成維震軍で活躍した。WEB報知では、「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」と題し、記憶に残る名選手のレスラー人生をたどる連載を展開する。第1回は「アントニオ猪木に一目ぼれして新日本プロレス入門」。(福留 崇広)

 小林は、1956年1月11日、長野県小諸市で大工だった父・百之助と母・初代の間に生まれた。兄弟は5人で3番目の次男で小諸市立野岸小から芦原中学へ進み、中学時代は剣道部で他に陸上の砲丸投げに取り組んでいた。

 一方でプロレスは、当時、日本テレビとNET(現テレビ朝日)で日本プロレス、TBSで国際プロレスが放映されていたが、それほど熱心なファンではなかったという。

 「プロレスは、テレビでたまに見る程度でした。見ていたのは、国際で面白いキャラクターがたくさんいて好きだったですね。好きな選手は、体がすごかったから大剛(鉄之助)さんが好きだったですね」

 そんなプロレスとは、ほとんど無縁だった少年に転機が訪れたのは小諸商業に進学した1年の冬だった。

 「田舎の本屋で何となくプロレスの専門誌を立ち読みしていたんです。そこには、アントニオ猪木さんがちょうど日本プロレスを除名されて新しく団体を旗揚げすることが載っていました。それを読んだ時にものすごく猪木さんに惹かれるものがあったんです。その時、直感というか瞬間に決めました。猪木さんの団体に入ろう、と。それが私のレスラーになったきっかけです」

 1971年12月13日、ジャイアント馬場と並んで日本プロレスの看板選手だったアントニオ猪木は、会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを除名された。猪木は翌72年1月26日に新団体「新日本プロレス」設立を発表する。16歳だった小林は、小諸市の書店で立ち読みした専門誌に猪木の追放から新団体設立までの記事と写真を読み、一瞬でプロレスラーになることを決断したのだ。

 「自分の中では将来、サラリーマンだけはやりたくなかったんです。毎日、同じ事の繰り返しで一生終わってしまうっていう感じがして、何か変化のある仕事に就きたいとは思っていました。じゃあ、どうして決めたのか?って。これは言葉で説明するのは難しいんですよ。自分の中で何か猪木さんに光るものを感じたんですね。そうとしか言いようがないんですね。“あっ、自分が人生をかけるんだったら、この人だろうな”っていうテレパシーがあったんですね。ビビビッてきたんです」

 猪木に一目ぼれした小林は、新日本プロレスに入門すべく即、行動に移した。高校を中退したのだ。(続く。敬称略)

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