【巨人】V9時代のエース、堀内恒夫氏が語った「石より堅い」川上哲治氏の野球

72年8月27日の広島戦で、20勝を挙げ笑顔で川上監督(左)と握手する堀内
72年8月27日の広島戦で、20勝を挙げ笑顔で川上監督(左)と握手する堀内
ONと後楽園球場のベンチで記念写真に納まる川上監督
ONと後楽園球場のベンチで記念写真に納まる川上監督

 巨人が9日の中日戦に競り勝ち、原監督が監督通算勝利数の球団最多記録1066勝目を挙げ名将・川上哲治氏に肩を並べた。V9時のエースで本紙評論家の堀内恒夫さんが「川上野球」を振り返り、「石より堅い」と評された采配をエピソード付きで紹介する。

 「勝つ野球」。それで分からなければ「最善の野球」。川上野球だ。「石より堅い」と言われた。奇襲もないわけではなかったが、作戦は手堅かった。6、7点目をスクイズで取ったこともあった。

 金字塔の日本シリーズ9連覇。神髄は「相手の研究」だ。対戦相手の監督の性格まで調べていた。1971年、阪急の西本幸雄監督が慎重な性格で、一度失敗すると同じ作戦を二度とやらないことまで調べ上げ、私と捕手の森昌彦(現祇晶)さんに徹底的に練習させて、福本豊の二盗を2度阻止。そのシリーズで二度と盗塁のサインを出させなかった。

 高度なプレーを要求したわけではない。ベースカバーやバックアップなど基本プレーを怠ったり、ボーンヘッドを嫌った。私は入団3年目の68年、産経(現ヤクルト)戦で9―0で勝っていた5回1死満塁で代えられたことがある。四球を連発したことへのお仕置き。同じようなことが4、5度はあった。川上さんは何も言わずに代える。無言だから怖い。勝利投手目前で代えられることで、悔しさを出させようとしたのだ。もちろん、厳しいのは若い私にだけではない。長嶋さんにもみんなの前でどなった。

 一方、コーチの管理も超一流だった。使ったコーチで現役時代に実績があったのは藤田元司さんくらい。あとは牧野茂さん、荒川博さんら。選手時代に名前が通っていた人ではない。大毎(現ロッテ)で榎本喜八さんを育てた荒川さんは巨人で王(貞治)さんを“世界の王”にした。陸上十種競技出身の鈴木章介さんをトレーニングコーチとして招へいしたのも川上さんだ。

 牧野さんといえば“ドジャース戦法”が頭に浮かぶ。守備でのサインプレー、フォーメーションなど、当時の日本球界で巨人が最初に取り入れた。今は当たり前になっているが、例えば一塁手がバントに備えて前進する。一塁が空く。走者の離塁が大きくなる。その時、一塁ベースに入った二塁手に投手、捕手からけん制球を送る。面白いように引っ掛かってくれた。

 そのフォーメーションを、100%バントのケース、50%のケースなど1から5までに分けて、スペイン語で「ウノ」「ドス」「トレス」「クアトロ」「シンコ」と名付けたのが牧野さんだ。「トレスでいくぞ」などと、内野手が声を掛け合っても、他球団の選手はきょとんとしていた。その練習をキャンプで報道陣を閉め出して徹底的にやった。“哲のカーテン”と呼ばれた練習だ。

 川上野球は他球団の3年から4年先を行っていた。勝って当然かもしれない。しかし、勝つことはできても、続けて勝つのは難しい。長期戦も短期戦でも強かった川上監督。こんな監督はもう出ないだろう。(スポーツ報知評論家)

 ◆川上 哲治(かわかみ・てつはる)1920年3月23日、熊本・人吉市生まれ。熊本工時代は投手。38年に巨人入りし、本格的に一塁に定着した39年に初の首位打者。兵役から戻った戦後、青バットの大下弘とともに「赤バットの川上」として人気者に。現役中に自らが主演の映画「川上哲治物語 背番号16」もできた。58年の引退まで首位打者5回と2351安打は当時のプロ野球記録。2年間のコーチの後、監督就任の61年に日本一。65年に野球殿堂入りし、背番号16が永久欠番に。65~73年に9連覇。74年限りで監督を勇退した。2013年に老衰で死去。現役時代は174センチ、75キロ。左投左打。

72年8月27日の広島戦で、20勝を挙げ笑顔で川上監督(左)と握手する堀内
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