トム・シーバー氏死去、私は“ライジングボールの元祖”の快投を見た

1974年11月、巨人・王貞治と対戦するメッツのトム・シーバー 
1974年11月、巨人・王貞治と対戦するメッツのトム・シーバー 
1974年10月、日米野球で記念撮影を行う(左から)巨人・長嶋茂雄、メッツのジョー・トーレ、王貞治、トム・シーバー
1974年10月、日米野球で記念撮影を行う(左から)巨人・長嶋茂雄、メッツのジョー・トーレ、王貞治、トム・シーバー

 1969年に25勝を挙げ“ミラクル・メッツ”を牽引するなどメジャー通算311勝を挙げたトム・シーバーが8月31日に死去したことが明らかになった。75歳だった。2019年に、認知症の診断を受け、今回の新型コロナウイルスに感染していたことが死因だったようだ。

 シーバーは南カリフォルニア大から1967年にメッツでメジャーデビュー。右膝が地面につくほどの重心の低いピッチングフォームから繰り出す速球は、計測されていないものの、ほぼ同時期に主にドジャースで通算324勝したドン・サットンが「トムの全盛期は100マイル(約160・9キロ)は出ていたと話すほど。それにチェンジアップも切れ味鋭く、1970年4月22日パドレス戦では10連続奪三振含む1試合19奪三振と当時の2つの記録を作った。

 サイ・ヤング賞を3度受賞したほか、3度の最多勝、3度の最優秀防御率、5度の奪三振王。9年連続200奪三振の記録はメジャー記録として今でも残っている。オールスター戦には新人の1967年にいきなりセーブを挙げるなど、通算12度選出。1992年に資格取得1年目で、当時史上最多の得票率98・84%で野球殿堂入りした。

 1974年メッツ、1978年レッズと2度の日米野球に参加して日本の野球ファンでもご存じの方は多いはず。私は彼の日本での計8試合の登板中、最高のピッチングである1974年11月10日、甲子園での全日本戦の取材する機会があった。その日、シーバーは4安打1失点完投で11個の三振を奪った。1失点は田淵幸一のつまった右翼線二塁打によるもので全日本のオーダーが手も足も出ない状態。三振11個の中には“喝”でおなじみの安打製造機と言われていた張本勲が2打席2三振だった。もっとも、シーバーは「やっとシーズン中の調子が戻ってきた。でもまだコントロールが今一つ」と王貞治への敬遠含め5四球が気に触っていたようだ。

 当時の報知新聞の紙面には「手が出ぬライジング」の見出しがある。浮き上がってくるような威力のある速球のイメージで「ライジングボールの元祖」とも言われたのがシーバーでもあった。その球威からつけられたニックネームは「Tom Terrific」“素晴らしい”というより“凄い”という訳の方がふさわしいのではないだろうか。

 デビュー以来13年連続200イニング以上、通算4783の投球回も投げ続けられた体力は18歳で海兵隊のブートキャンプ(新兵訓練施設)を経験。「これが自分に体力だけで無く規律も養ってくれた」と話しており、この訓練をメジャーになっても続けていたとされている。

 米大リーグ機構のマンフレッド・コミッショナーは「史上最高の投手の一人、トム・シーバーの死を悼んでいる。トムはメッツと、忘れ得ぬ69年の代名詞だった」との声明を出したが、私もその通りだと思う。メッツで一緒にプレーした奪三振マシンのノーラン・ライアンが荒削りの大投手なら、シーバーは完成された大投手と言えるだろう。

 最後に1969年のワールドシリーズ直前に、シーバーは「ワールドシリーズでメッツが勝ったら新聞に、“米国はベトナムから撤退すべきだ”との広告を出すつもりだ」と語ったことがある。メッツが勝ったものの、それは内外からの反対から実現しなかった模様だが、政治意識も高かった野球選手でもあった。(敬称略)蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト

1974年11月、巨人・王貞治と対戦するメッツのトム・シーバー 
1974年10月、日米野球で記念撮影を行う(左から)巨人・長嶋茂雄、メッツのジョー・トーレ、王貞治、トム・シーバー
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