元宝塚のトップスター・安奈淳、余命3日から奇跡の回復…膠原病との壮絶な闘い

スポーツ報知
「一日、一日を大事に生きたい」という安奈淳(カメラ・橘田 あかり)

 宝塚のトップスター時代に「ベルサイユのばら」オスカル役で人気を博した女優、歌手の安奈淳(73)。50代は難病、全身性エリテマトーデスという膠原(こうげん)病との壮絶な闘いを強いられた。緊急入院時、「余命3日」の宣告から奇跡的に回復。しかし、治療薬の副作用による重度のうつ病で「死んだ方がまし」と絶望的になった時期も。元気を取り戻した今、「時をかみしめ一瞬、一瞬を大切に」と命ある喜びを果てしなく歌に込め、生きていきたいという。(内野 小百美)

 20年前の夏から秋。500円新硬貨がお目見えし、シドニー五輪での女子マラソン・高橋尚子の金メダル獲得で日本は沸いていた。病床にいた53歳(当時)の安奈淳に、その頃の出来事はおぼろげでしかない。

 東京・聖路加国際病院に緊急入院したのは、2000年7月。直前まで神戸でステージに立っていた。数年前より体調は優れず、気力を振り絞って歌っていた。「病院知らず。ずっと漢方、整体で何とかなると。でもとうとう呼吸ができなくなり、いくらお水を飲んでも小水が一滴も出なくなって」

 ホスピスのチャリティーコンサートが縁で同病院名誉院長だった日野原重明氏(17年死去、享年105)と交流があった。「何かあったときはここに」と買ったばかりの初めての携帯電話に番号を登録。そこへ掛けた。結果的にこれが命を救う。

 「死ぬ思いでお電話したら、すぐいらっしゃいと。1時間遅ければ死んでいた、と。すぐ体内の水を抜く処置が始まって。薄い黄色い水が出ていくのが見えた」。尿だった。60キロまで増えていた体重はむくみが引くと、38キロになっていた。しかし約1週間、意識不明に陥った。「お医者様も最初は原因が分からず『何だろう』と眠る私のベッドに集まって、ああでもない、こうでもないとおっしゃっていたそうで」

 衰弱は激しく、あらゆる臓器が弱っていく極めて重篤な状態。家族には「余命3日」と告げられ、看病と葬儀の準備を並行。“その時”を覚悟した。「聖路加の中に教会があって。知人や友人はそこでお葬式、お別れの会の準備をしましょう、と。でも洗礼を受けてない人はできません、となった。そこを何とか、と掛け合ってくれたけれど結局ダメで。そうこうするうち、奇跡的に持ち直し、危機を脱していた。先生を含め、大方の予想を裏切ったんですね」

 連日検査、検査。腕から血が採れず、首の血管から採血をした。「首の方が楽でしたよ。でもずいぶん痩せて骨と皮の状態。友人から人体模型みたいだ、と言われたり」。入院4日目になり難病指定されている膠原病の一種、全身性エリテマトーデスと診断された。

 しかし、その後は地獄のような別の苦しみに襲われる。強いステロイド投与の副作用で重度のうつ病との闘いが始まったのだ。

 「これはもう、死んだ方がましと思いましたよ。視界はぼやけ、幻覚、味覚障害。思考回路が破壊されたような感覚で。1+1が数えられず、言語理解力も低下。ありとあらゆる機能が変になって。自殺願望まで。悲観的になるというより、死ななくちゃいけないんだ、という観念にとりつかれた。この薬を終えると、これらが収まりました」

 膠原病が広く認知される前。長年、体調不良で苦しんだ母は58歳で逝った。実は同じ病気だった。「母の分も生きないと…」。体の奥から生命力が湧いてくるのを感じた。その後、心臓弁膜症、そして初期のがんで右腎臓の腫瘍を切除している。死線をさまよう壮絶な苦しみを乗り越えた経験。それは、何が起きても動じることのなく冷静に受け止められる強いメンタルを与えてくれた。

 まるで宝塚の申し子だ。両親が熱心な歌劇ファンで赤ちゃんの時から「タカラジェンヌに」と期待されて大きくなった。中卒時の最初の試験で宝塚音楽学校へ。第51期の中で上位での入学。父母ともに鬼籍に入ったが「センター(トップ)にも立たせてもらい、舞台がいかに素晴らしいかを教わるきっかけを作ってくれた。少しは親孝行できたのかな。親の決めた選択は間違ってなかったと思う」。

 秀でた歌唱力、演技力。中性的な魅力を生かし男役も女役も巧みにこなした。芸域の広さに定評があった。社会現象にもなった「ベルサイユのばら」でのオスカル役の成功は、確かな実力に裏打ちされてのものだった。

 「でも、私は自分で何かの道を切り開こうとするタイプではない。巡り合わせというか、流れにヒョイと乗ってきた感じ。絶対トップになりたい、とかもなく、一生懸命に努力した、という意識もなくて」。それを物語るエピソードに楽屋入りは遅いが劇場を出るのは誰よりも早かった“伝説”がある。「終わったら頭の中は帰ることしかなかった。お客さまが劇場を出るよりも早く帰ったりしてましたよ」

 在団中、体は丈夫だった。「細いのに大食漢。ご飯は丼に山盛り、焼き肉は4、5人分、デザートにバナナ3本とか。ものすごく食べていた。そのおかげもあって、ここまで生き延びられたと思うことも」

 13年間の宝塚生活。病を克服して、選ばれし者が集まるタカラジェンヌ特有の忍耐強さを、逆に危惧することもあるという。「入団すれば舞台は決して個人芸でなく集団で動くことを徹底して教わり、身に付ける。自然に自分一人のせいで他の人に決して迷惑をかけてはいけない、と思う。しんどくても知らず知らず限界まで我慢しちゃう。それがよくないと分かったのも、この病気をしたからです」

 社会復帰できたのは2002年。倒れた時、1年半は仕事は休養しなければならない、と告げられた。絶望の淵に立たされ「引退」も頭をよぎった。しかし、病との闘いは、歌い手としての感性をより鋭敏に、豊かなものにした。求められ、近所の人に歌を教えることもしている。

 

「声が出なくなっていた。でも生活していかないといけない。ボイストレーニングをやり直した。声帯は何歳からでも鍛えられると分かり、どんどん声が出るようになって」

 歌を聴く感性までも、変化している。「誰にも人生の裏側がある。表面的なメロディーで聴くんじゃなくて。歌手の歩んできた人生に、より思いをはせられるようになったわね」。そして「普通に歌うんじゃなくて。歌詞の主人公になりきって、のめり込んで。いろんなことを加味することが、いますごく楽しくて」。

 55年の芸能人生。秋には15年ぶりにCDを出す。「15年前の自分の歌を聴くと、きれいに歌ってるんだけど味がない。すっきり、くっきり歌ってるけど面白くない。歌うのは大好き。でも本当の意味で歌い切るためには、やっぱり長生きしなくちゃダメだと気づかされて」

 つい最近、引っ越しした。ピアノ不可の場所だったので弾ける部屋に移ったのだ。「時の大切さは身に染みて分かってますから。一瞬、一瞬を大事に。無為に過ごすのがもったいなくて仕方ない。女性は年齢のこと言うべきじゃないけれど先月73歳に。よくぞここまで生きられたと感謝します。60くらいで終わると思ってましたから」。現在、通院と薬を飲み、規則正しい日々を送る。命のある幸福をかみしめる。

 「誰にも平等にいつか死は訪れる。寿命があるんだから。でも最近は特にどうして自分はこの世にいるのか。なぜ生きるのか。そんなことを考えることが増えて」。今年3月のライブ映像をDVDで見た。そこには“ベルばら”の名曲「愛あればこそ」もあった。昔のものと聞き比べてみた。音の一つ、歌詞のワンフレーズ。その表現力は確かに深い味わいへと大きく変化していた。

 ◆膠原病 全身性の自己免疫疾患の総称。最も多いのが関節リウマチで、次に多いのが全身性エリテマトーデス(SLE)とされる。難病情報センターのホームページによると現在、国内に6~10万人のSLE患者がおり、男女比は1対9と女性患者が圧倒的に多い。遺伝説もあるが、はっきりした原因は分かっていない。治療に副腎皮質ステロイドの使用が多く、5年以上生存率は95%と治療は進歩。膠原病の多くが国や都道府県の難病に指定されている。

 ◆近況 10月10日に美川憲一との共演で「Avec Toi レジェンドたちのシャンソン2020」(東京・銀座ヤマハホール)、同28日には芸能生活55周年記念CD「安奈淳 私の好きな歌」(全22曲)を発売。

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