福嶋一雄さん悼む…夏の選手権期間中は「西宮の闇市にパンを買い出しに行った」公式戦12戦連続完封、111イニング連続無失点の優勝投手

2013年夏の甲子園。野球殿堂入りを記念する表彰式で、記念撮影を行う福嶋一雄さん
2013年夏の甲子園。野球殿堂入りを記念する表彰式で、記念撮影を行う福嶋一雄さん

 たった1度の取材にも多くのことを教えていただいた。

 福岡・小倉中(現小倉高)のエースとして戦後の夏の甲子園大会を連覇した福嶋一雄さんが27日、十二指腸がんのため北九州市内の病院で亡くなった。89歳だった。

 私はメジャー担当ながら、2015年、高校野球100年の企画で「高校野球もヒルマニア」という100年を駆け足で振り返るコラムを仰せつかった。その2回目に取り上げたのが福嶋さんだった。2013年に野球殿堂入りしていることで野球殿堂博物館に連絡先を伺っての電話取材。いきなりの連絡にも84歳を迎えた福嶋さんは元気そうな声で、1時間を超える質問に応じてくれた。

 母子家庭で剣道部に入っていたのに、戦後になって野球解禁で野球部に入ったこと。当時は裸足でボールを追ったこと。1946年、小倉中では、OBが戦時中、土蔵にバット20本、ボール400個を保管。野菜畑だったグラウンドを進駐軍がブルドーザーでならしてくれて、いち早く練習に励めた。その成果で同校の黄金時代が始まる。

 西宮球場で開催された同年夏の選手権には控え投手として出場した福嶋さんは「練習どころでなく、西宮の闇市にパンを買い出しに行った」と述懐してくれた。負けたチームが勝ち残ったチームに持ってきた米を置いていくほどの食糧難だった。

 舞台が甲子園に戻った47年。当時としては大柄な177センチ。阪神の監督兼投手・若林忠志の“野球教本”を参考に横手投げとなり、1日500球近く投げ込んで制球力も磨いた。47年のセンバツでは準優勝し、選手権では強豪をなぎ倒し、優勝旗を初めて九州にもたらした。

 1948年は新制高校初年度。「高校野球選手権大会」となった夏の大会で連覇。福嶋さんは1939年海草中・嶋清一投手に次ぐ2人目の5試合オール完封。抜群の制球力と機敏さで一度も相手の送りバントを成功させなかった。その前後の大会を含めると国体の決勝で敗れるまで「公式戦12試合連続完封、111イニング連続無失点」をマークした。

 最上級生となった1949年。当時の福岡県は戦後復興の重要政策として、石炭・鉄鋼の増産に集中する「傾斜生産方式」で炭鉱が活況を呈した最盛期。そのため、近隣から招待試合の誘いが殺到。「自分一人しか投手がいないし、私が投げるのを楽しみにしている人たちばかりで招待試合もほとんど全て投げた。でも(炭鉱景気に沸く主催者からの)白米や肉が食べられるので苦にならなかった」と笑っていた。しかし、その登板過多で肩、肘の痛みに悩まされた。加えて、この年からボールの質が格段によくなり、甲子園にはラッキーゾーンが設置された。そのため、準々決勝で倉敷工に2本塁打を浴びて敗退。グラウンドを去る際、土をポケットに入れたのが甲子園の土を持ち帰った最初と言われている。

 その後、福嶋さんは控え投手ながら早大で4度も優勝に貢献、八幡製鉄でも1954年の都市対抗野球優勝と、アマチュア大会の3つの最高峰で優勝を経験。その後は社会人野球の要職を務め、後進を指導していた。

 その後、「こんな原稿になりました」とFAXで送ると「ありがとうございました。私のような人物を書いていただきまして」と恐縮された。あの5年前の夏だけの取材でしたが、もっと取材すればと思わずに居られない。

 ご冥福をお祈りします。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)

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