【2007年7月28日】“プロレスの神様”カール・ゴッチが死去 厳しく優しい、もう一人の“日本プロレスの父”

 “プロレスの神様”と呼ばれ、多くの日本人プロレスラーや格闘家に影響を与えたカール・ゴッチが米フロリダ州タンパで死去した。82歳だった。日本のプロレス関係者には数日前から体調を崩しているとの連絡が入っていたという。死因は後に大動脈瘤破裂と伝えられた。弟子のアントニオ猪木は「具合が悪いのは聞いておりました。あらためて訃報に触れて言葉もありません」と語り、初代タイガーマスクの佐山聡は「ゴッチ先生はプロレス、格闘技に限らず私の人生のすべてでした。育てていただき、ありがとうございました。先生の遺志は継いで参ります」とコメントしている。

 ゴッチは61年5月に「カール・クラウザー」のリングネームで初来日し、“日本プロレスの父”力道山とも対戦している(5月26日、福井で60分3本勝負=1―1の引き分け。その後、多くの日本人レスラーの育成にも当たり、67年10月31日にジャイアント馬場と猪木の「BI砲」が初めてインターナショナルタッグ選手権を獲得した時には、2人に付き添って登場した。卍固め、ジャーマンスープレックスホールドを伝授したとされる猪木が、72年に新日本プロレスを設立した時には、旗揚げ戦(3月6日)で猪木の対戦相手を買って出た(15分10秒、体固めでゴッチの勝利)。ちなみに、猪木との政戦成績は3勝2敗。

 本名カール・イスターツ。ドイツ・ハンブルク生まれが定説だが、48年のロンドン五輪にはレスリングベルギー代表として出場。何と、グレコローマンスタイルとフリーのライトヘビー級(87キロ以下)の両種目に出場した。ベルギー国内選手権では1945年からプロレスに転向する50年まで、両種目で負けなしだったと伝えられている。

 さて、記者は一度、ゴッチさんと“食事”をしたことがある。新生UWF(第2次)が旗揚げした頃だ。都内の道場を訪れると、ゴッチさんが若手相手にスパーリングを行っていた。当時63歳だったが、20歳代の若手相手数人に延々と寝技で稽古をつけていた。過呼吸になるくらい息が上がっていた若手選手をけさ固めに押さえ込みながら、記者に涼しい顔でウィンクしてきた。練習を終えると、そのまま上半身裸で質問に答えてくれた。わずかに額に光る汗を指でぬぐいながら、こちらの十分でない英語に対応してくれて、丁寧に答えてくれた。薄めの、金髪の胸毛が生える分厚い胸板を見て、とても60歳を超えている人のそれとは思えなかった。

 その後、「ちゃんこ鍋を一緒に食べよう」と誘ってくれた。「あまりキックとかは好きではない」など、当時、日本で人気のあった、キックを重視した格闘技スタイルについて露骨に嫌な顔をしたり、同じテーブルでプロテインを牛乳に混ぜて飲んでいた選手の指さして「自然食が一番だよ」と皮肉を言ったりもしていた。だが、選手らを見る目は、肉親のような優しさに満ちていた。まさに、厳しくて、優しい、もう一人の“日本プロレスの父”の顔だった。

(記者コラム・谷口 隆俊)

コラムでHo!とは?
 スポーツ報知のwebサイト限定コラムです。最前線で取材する記者が、紙面では書き切れなかった裏話や、今話題となっている旬な出来事を深く掘り下げてお届けします。皆さんを「ほーっ!」とうならせるようなコラムを目指して日々配信しますので、どうぞお楽しみください。

格闘技

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS ショップ報知 マガジン報知 バックナンバー申し込み 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真販売 法人向け紙面・写真使用申請