7月10日は新たな球史に刻んだ日。それは戦後すぐの東西対抗に匹敵する

10日の中日―広島戦延長10回、ダヤン・ビシエドがサヨナラソロ本塁打を左中間に放つ(ナゴヤドーム)
10日の中日―広島戦延長10回、ダヤン・ビシエドがサヨナラソロ本塁打を左中間に放つ(ナゴヤドーム)

 プロ野球にファンが帰ってきた。上限5000人という中で行われた5試合はいずれも素晴らしい1点差試合で、そのうち3試合でサヨナラホームラン(それもすべて完璧な一発)が飛び出した。

 私はテレワークで自宅でテレビを見ていた。中日のビシエドのサヨナラアーチをスマホで知っていたが、オリックスのロドリゲスとソフトバンクの柳田の一発は、BSのライブ中継で見させてもらった。スタジアムのファン同様ガッツポーズをしてしまった。この日プレーした選手にとっては、無観客試合が続いていただけに、改めてファンの大切さを感じた試合ではなかったろうか。

 ここで、こんな劇的なプロ野球の再開劇はあったのだろうか、とふと考えた。それに匹敵すると、私が思うのは1945年11月23日の東西対抗ではなかろうか。

 終戦からわずか3か月。実は学生野球では、10月28日に六大学OB紅白試合、11月18日には全早慶戦が同じ神宮球場で行われていた。ともに戦前、野球界のトップの人気をつかんでいただけに、慶応野球部史によれば、ともに「待ちに待った試合で満員札止め」と書かれていた。

 戦前のプロ野球は職業野球とさげすまれ、観客はよく入っても数千人という中で行われていた。しかし、終戦直後にプロ野球関係者が「職業野球の日本野球連盟は、従来において大学野球の延長としての形態に止まるならば、その努力は決して上策とはいえない。少なくともアメリカの野球が世界の最高峰ならば、その高峰に足を踏みかけて、一歩一歩高峰に近づいていくだけの覚悟がなければならぬ」と各球団に通達している。そのうえで、再開のプロ野球をファンに知らしめる意味で11月23日に、プロ野球でそれまで一度も使えなかった神宮球場で東西対抗を開催した。22、23日と2日間やる予定だったが雨で23日だけが行われた。

 選手は復員してきたばかりの着の身着のまま。残していた古いユニホームを引っぱり出し、野球用具の多くは関西の球界関係者が保管していたのを、後にセ・リーグ会長となる鈴木龍二氏が東京まで列車に乗って運んだというエピソードが残っている。試合前に鈴木氏は「今世相は非常に乱れている。ヤミが横行し、浮浪児も目立って多い。こういうときプロ野球をやることは、人心を明朗にするために非常に意味がある。君たちしっかりやってくれ」と訓示したそうだ。

 練習不足の選手たちだったが、野球を胸を張ってやれる喜びが満ちあふれていたという。戦前からのスター選手に西軍には近畿日本(後の南海)の鶴岡一人、別所昭(後の毅彦)、阪神・藤村富美男、東軍には巨人の千葉茂、藤本英雄、名古屋の古川清蔵ら。試合は東軍が13―9で打ち勝つのだが、その東軍の中にはセネタース入りしたばかりの大下弘が3安打5打点で大活躍。翌年以降の「青バットの大下」の片鱗を見せていた。

 鶴岡は後に「生きて帰っただけでもうれしいのに、野球をやれるのは何とも言えない。そうでなかったら、機関車の石炭の上に乗って大阪から来ますかいな。あの時は阪神の藤村、呉(昌征)らとみんな集まって『久しぶりやな』と言い合ったんだ」と述懐している。

 六大学関係試合の満員と違ってこの日の有料入場者は5878人と記録が残っているが、後にセ・リーグ会長となる鈴木龍二氏は「しかしよくお客さんが入ったと思うね」と話している。この日の東西対抗が戦後、人気を集める再開プロ野球の礎になっているのだ。

 なお、24日は群馬県桐生市の新川球場、12月1、2日は西宮球場でも開催されたが、プロ野球再開の第一歩ともいうべき1945年11月23日こそが、球史に残る日となった。今回も無観客から有観客となった記念すべき日。そして素晴らしい試合の数々で球史に刻まれる日になったのではないだろうか。願わくば新型コロナウイルスの感染がこれ以上拡大しないことを祈るばかりだ。

 蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

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