現役2年延期で金メダル「東洋の魔女」から悩む選手へ「気持ちを強く持って頑張ってほしい」

1964年10月、東京五輪女子バレーボールのルーマニア戦で松村(後方左)がトス、谷田(同右)がスパイクの構えに入る
1964年10月、東京五輪女子バレーボールのルーマニア戦で松村(後方左)がトス、谷田(同右)がスパイクの構えに入る
東京五輪の女子バレーボールの表彰式で金メダルを受ける全日本女子チーム
東京五輪の女子バレーボールの表彰式で金メダルを受ける全日本女子チーム

 来年7月23日開幕に延期された東京五輪まで、18日であと400日となった。この1年延期に、心中が揺れ動いた選手もいたのではないだろうか。「東洋の魔女」と呼ばれ、1964年東京五輪で金メダルを獲得したバレーボール女子日本代表は、62年世界選手権で優勝した後、想定外の“現役2年延期”から五輪に出場した。2年をどう乗り越えたのか、その間の心の動きなどを追った。(取材・構成=久浦 真一)

 五輪金メダルが決まると、アタッカーの井戸川(旧姓・谷田)絹子(80)は「やったーという気持ちとともに、これで(バレーを)辞められる」と思った。東洋の魔女のレギュラーにとって、2年延びた競技生活のピリオドを迎えた瞬間だった。

 実は当初の目標は、62年世界選手権での優勝だった。大松博文監督の厳しい練習を乗り越えて、敵地でライバルのソ連を破り、栄冠をつかんだ。これで選手たちは引退するつもりだった。2年後の東京五輪で正式競技に採用されたという話を聞いても、「出ると思ってなかったので『あー、そうですか』」(井戸川)ぐらいの気持ちしかなかった。

 だが、女子団体競技での世界選手権Vという日本初の快挙から「次は五輪で金メダル」との期待は、選手の予想を超えるものになった。五輪組織委員会、日本協会、選手たちが所属していたニチボー貝塚の会社幹部に説得され、ファンからは現役続行を願う手紙が5000通も届いた。

 当時は20代前半で結婚する人が多かった。主将の河西昌枝(故人)は29歳。他の主力も適齢期で“2年延期”には切実な思いがあった。河西は自著「バレーにかけた青春」の中で「私だけでなく、あのときは、みんながやめたかった。私たち6人は会社の偉い人を前にして、泣いてやめさせて下さいと頼んだ」と記している。体力的にも、下降線をたどる不安も抱えていた。

 その思いを受け止めるように大松監督は62年11月、辞意を表明した。「あのころはレギュラーの方と監督は毎日、会議室で話をされてました」と控えセッターの千葉(旧姓・松村)勝美(76)。だが翌年1月、大松監督は「これほど世間から期待されているとは思わなかった。個人的な理由から期待を裏切ることはできない」と辞意を撤回した。

 「私は(主軸の)6人が残るならやろうと決めてました。私が右手でボールを受けたら、どのあたりをカバーすればいいとか、左手で弾いたら、このあたりに球が行くとか全員が知り尽くしていた。それを一からやり直すということは難しかった」と井戸川。健康面の問題で1人は引退せざるを得なかったが、他のレギュラー5人は現役を続行した。

 再開された練習は世界選手権前より激しかった。勤務後の午後3時から始まり、終わりが明け方になることも。そして迎えた64年東京五輪。ソ連との優勝決定戦は平均視聴率66・8%という国民注視の中、金メダルを獲得した。

 選手としてのゴールが2年延びて、気持ちは切れなかったのか。今回の五輪が1年延期になり、メンタル面で葛藤している選手もいるが、井戸川は「あのつらい練習をまたやるのか、と最初は思いました」。その気持ちを吹っ切って臨んだという。「やると決めたら、当時23歳だった私は1年、年取ると若い選手と対抗するのに2倍も3倍も頑張って練習しなければならないと思いました。いろいろ考えるより、練習するしかなかった」。ライバル国の若手に負けないよう自らにさらにトレーニングを課した。

 東京五輪で控えだった千葉も、精神面を立て直す経験をしている。68年メキシコ市大会は代表に選ばれず、再び五輪の舞台に立ったのは8年後のミュンヘン大会。その2年前の世界選手権は2位で優勝できず、一度は気持ちが切れた。「周囲にも説得されましたが、最終的には主将の自分がコートにいなくてどうするんだという思いが強くなりました。試合が始まればコートの中に監督はいない。その役割を果たすのは自分だという意識です」と振り返った。

 来年の東京五輪を目指す選手には「ベテランの選手は特に大変だと思います。不安な部分もあると思いますが、気持ちを強く持って頑張ってほしい」と、千葉は気遣いながらエールを送った。(敬称略)

 ◆東洋の魔女のその後 東京五輪で主力として活躍したのは河西、宮本、谷田、半田、松村、磯辺(いずれも旧姓)の6人。磯辺を除く5人は五輪後に引退。ママさんバレーの普及活動などに尽力した。河西さんは13年に80歳で、磯辺さんは16年に72歳で亡くなった。大松監督は65年、中国に招かれて指導。68年には参院議員に当選。その後、講演や普及のために全国を回ったが78年、心筋梗塞のため57歳で死去した。

1964年10月、東京五輪女子バレーボールのルーマニア戦で松村(後方左)がトス、谷田(同右)がスパイクの構えに入る
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