【1999年6月12日】阪神・新庄剛志が敬遠球をサヨナラ打 あれから21年 SHINJO劇場はまだ終幕せず

延長12回1死一、三塁、巨人・槙原寛己の敬遠の球を左前にサヨナラ打した阪神・新庄剛志
延長12回1死一、三塁、巨人・槙原寛己の敬遠の球を左前にサヨナラ打した阪神・新庄剛志

◆1999年6月12日 阪神5×―4巨人(甲子園)

 お立ち台に上るヒーローの取材に大慌てで向かった。同点の延長12回1死一、三塁。新庄が敬遠球を打ち、三遊間を破るサヨナラ打。槙原―光山バッテリーと同じく、虎番も予期せぬ一打だった。

 驚いたのは用意周到だったこと。「(捕手の)光山さんが低く低くと声を出していたので、行けるかなと思ったんです。ショート(の二岡)がベースについていたのでゴロを転がせばヒットになるかなと思って…」と、当時27歳のスターはさわやかな笑顔を振りまきながら、少し興奮口調で振り返った。1球目はホーベースから離れて立って悠然と見送った。そして、2球目。一塁ベンチの柏原打撃コーチとのアイコンタクトでGOサインを得た。槙原が投げる直前に右足を前に1歩踏みだすと、左足はつま先がベースにかかる位置まで踏み込んだ。

 師匠と慕っていた同コーチのお墨付きを得たのは2日前だった。9日の広島戦で敬遠された翌日に「打ってもいいですか」と相談。現役時代に敬遠球のホームランを打ったことのある同コーチの了解を得て、フリー打撃で悪球打ちの練習を行っていた。

 私は恥ずかしいことに敬遠打ちの練習に全く気付いていなかった。だが、打席に向かう新庄の姿に違和感を抱いていた。100%敬遠のあの場面で、両手袋を外していたのだ。当時、年に数打席、ここ一番では素手でバットを握った。集中力MAXの「スーパー新庄」に変身した時の打率は驚くことに9割近かった。1死三塁となったところで、巨人バッテリーは満塁策を選択した。3番の今岡が敬遠され、続く4番打者もヒーローになるチャンスはないはずだった。「スーパー新庄に変身しても、勝負してもらえないのを分かっているのに」と見ていたが、本人は最初から打つ気だったのだ。

 「足が出ていた? ギリギリだったんじゃないですか。今から言っても取り消しにならないんでしょう。あしたの新聞の1面は何ですか? ホームラン(8回の同点ソロ)を打っている写真の方がいいな」と囲み取材で無邪気に笑った。巨人サイドが抗議したように、実は左足がバッターボックスから出る反則打球だった。リスエスト制度が採用された今の時代ならアウトになっていた。しゃくし定規でない面白さが当時のプロ野球にはあった。

 伝説の一打から21年。48歳の男は現役復帰を本気で目指している。少年のような純粋さ、価値観はあの頃から何も変わっていない。

 98年オフに野村監督に二刀流を提案され、二つ返事でOKした。「誰もやったことないから、やりたいんです。だって格好いいじゃないですか。『ピッチャー〇〇に代わりまして新庄』と呼ばれ、センターからマウンドに向かうのって」と目を輝かせていた。00年オフには5年総額12億円の破格の残留条件を蹴って、年俸2200万円のメジャー移籍を選んだ。球界再編でパ・リーグの存在価値が問われた04年。日本ハムで日本球界に復帰した新庄はオールスター(長野)で単独ホームスチールを決めると、お立ち台で「これからはパ・リーグです」と格好良く宣言した。ダイエー担当として現地で取材していて胸が熱くなった。

 プロ野球復帰を夢見て「1%の可能性があれば必ずできる」の言葉は口先だけでない力強さがある。予測不能のSHINJO劇場はまだ終幕していない。(98~01、09~10、17~18年阪神担当 島尾浩一郎)

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