【2016年6月3日】20世紀最大のスーパースター、ムハマド・アリ氏が74歳で死去 黒人解放運動・人種差別と戦った「米国史上最も偉大」で「平和の人」

アントニオ猪木と対戦した際のムハマド・アリ(左)
アントニオ猪木と対戦した際のムハマド・アリ(左)
思い出の写真の前で、亡くなったムハマド・アリ氏との思い出を語るアントニオ猪木氏
思い出の写真の前で、亡くなったムハマド・アリ氏との思い出を語るアントニオ猪木氏

 米中西部ミネソタ州ミネアポリス近郊で、黒人男性のジョージ・フロイドさん(46)が白人警官に暴行され死亡した事件を巡る抗議デモが全米に拡大する中、奇しくも4年前の6月3日は、反戦活動や黒人解放運動にも携わったプロボクシング元ヘビー級世界王者のムハマド・アリ氏が死去した日だった。4年を経た現在でも多くの人々に支持され、「20世紀最大のスーパースター」とも呼ばれている。

 アリ氏は呼吸器系の病気のため米アリゾナ州の病院で74歳で死去した。1960年のローマ五輪ライトヘビー級で金メダルに輝き、プロ転向後は世界ヘビー級王座を3度獲得。現役時代から反戦活動や黒人解放運動に尽力した。引退後はパーキンソン病と闘い、96年7月19日のアトランタ五輪開会式では最終聖火ランナーとして登場し、震える右手で聖火台に点灯した姿は世界中を感動に包んだ。2005年11月には米国民が授かる最も栄誉ある勲章「大統領自由勲章」を受章。ブッシュ大統領(当時)はアリ氏を「史上、最も偉大」で「平和の人」とたたえた。

 アリ氏が亡くなった際、当時のオバマ米大統領とミシェル夫人は「彼はただただ、グレーテスト(最も偉大)だった。彼の死を悼んでいる」との声明を出し、オバマ氏はホワイトハウスの書斎にアリ氏のグラブを飾っていると紹介。「我々のために戦った。(公民権運動の黒人指導者)キング牧師や(南アフリカ旧白人政権に長期間投獄された後、初の黒人大統領となった)マンデラ氏を支えた」と評価した。

 ▼リング内外で闘魂燃焼

 アリ氏の生き様と、その生涯は、闘いの連続だった。リングでは「チョウのように舞い、ハチのように刺す」ヒット&ランを駆使した華麗なアウトボクシングで、無類の強さを発揮した。

 リング外でも米国社会や人種差別に真っ向勝負を挑んだ人物だった。ボクシングを始めたのは12歳。愛用の自転車を盗まれ「盗んだやつをぶん殴ってやる」と息巻いていたところ、ボクシングコーチをしていた警官に「殴りたいならボクシングというスポーツがある」と諭されてグラブをはめた。

 ▼投げ捨てた金メダル

 1960年に18歳でローマ五輪の金メダルを獲得したが、当時の米国には不条理な人種差別がまん延していた。帰国後、故郷のレストランで黒人であることを理由に入店を断られ、自身の自伝で「米国のために戦って金メダルを取ったのに、1セントの価値もないのか」と金メダルをオハイオ川に投げ捨てたと記されている。(後にアリ氏がメダルを紛失したと訂正したとも言われている)

 ▼反戦運動

 60年のプロ転向後は、ヘビー級離れした俊敏なフットワークとパンチスピードで連戦連勝。64年にソニー・リストン(米国)を下し、20戦無敗のままWBA・WBC世界ヘビー級王座を獲得した。同時期に黒人公民権運動家のマルコムXと出会い、イスラム教に改宗。「カシアス・クレイ」から「ムハマド・アリ」に改名した。

 67年には米国政府によるベトナム戦争への徴兵を「彼ら(ベトナム人)には何の恨みもない」と拒否したことで、世界王座とプロライセンスを剥奪されたが、それでも信念を貫いた。

 ▼20世紀スポーツ史に残る「キンシャサの奇跡」

 70年10月には3年半のブランクを経てリングに復帰。71年3月にジョー・フレージャー(米国)に初黒星を喫するなど王座返り咲きは至難に思われたが、74年10月にザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで王者ジョージ・フォアマン(米国)に挑戦。40戦全勝の王者に、たるんだロープを背にしてパンチをかわす「ロープ・ア・ドープ」作戦でペースを乱し8回KO勝ち。「キンシャサの奇跡」と呼ばれる大番狂わせで2度目の王座獲得を果たした。防衛戦では世界各地を転戦。

 ▼猪木との異種格闘技戦

 76年6月26日に日本武道館で行われた「格闘技世界一決定戦」。日本のプロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級王者アリの異種格闘技戦で「世紀の一戦」と呼ばれた。試合は終始、猪木がリングにあおむけに寝転び、立って構えるアリに後に「アリキック」と呼ばれる、ローキックを放つ展開でかみ合わず、ほとんど見せ場もなく15回引き分けに終わった。アリは試合後、猪木氏の健闘をたたえて自身の入場曲「アリ・ボンバイエ」を贈呈。猪木のテーマ曲「炎のファイター イノキ・ボンバイエ」にアレンジされた。

 アリ氏の死去を受けて当時、会見した猪木氏(当時参院議員)は「元気があれば旅立ちもできる」と悲しげに切り出し、「(世紀の一戦は)直後は酷評され『茶番劇』とも言われたが、時間がたって評価されるようになった」と振り返り「彼との戦いがあったから政治家としての今がある」と戦友の訃報を惜しんだ。

 世界中の人々に勇気を与えた英雄の波乱の人生は世界中が悲しむ中、10カウントのゴングが鳴らされた。

 

 ◆ムハマド・アリ(本名カシアス・クレイ)1942年1月17日、米ケンタッキー州ルイビル生まれ。2016年6月3日死去。享年74。1960年ローマ五輪でライトヘビー級金メダル獲得。同年、プロ転向。64年、世界ヘビー級王者ソニー・リストンを倒して王座に就く。67年には徴兵命令を拒否して世界タイトルをはく奪。74年に再び王座に。81年引退。通算61戦56勝5敗。私生活では4度結婚し、4度目の妻ロニーさんとの間の養子1人を含め子どもは9人。3度目の妻との間の娘レイラ・アリは、女子ボクサーとしてWBC女子世界スーパーミドル級王座などを獲得(引退)。

 【2016年6月5日、報知新聞に掲載されたジョー小泉氏の追悼コラム】

 日本人としてはファイティング原田以来2人目の国際ボクシング名誉の殿堂博物館および世界ボクシング殿堂入りした、国際マッチメーカー、ジョー小泉氏はアリ氏の足跡と人物を語っている。以下はジョー氏が寄稿した当時の追悼コラム。

 「アリ氏と初めて会ったのは、1976年のアントニオ猪木戦で来日した時。190センチの身長は当時のヘビー級選手には珍しく大柄。言葉を交わしたところ、紳士的な印象を受けた。

 とにかく異端児だった。ヘビー級は足を止めて打ち合うスタイルが主流だったが、アリ氏は軽量級ばりのスピードとフットワークを駆使した華麗なアウトボクシングで相手を倒した。革命的な戦法はホリフィールドらが似たスタイルを取り、その後の重量級選手に多大な影響を与えた。

 大衆のアリ氏への受け止め方も時代によって変動した。イスラム教に改宗して以降は、徴兵拒否や黒人解放など体制と闘う姿勢を取り、ヒール役の色合いが濃くなった。徴兵拒否による3年半のブランクを経て1970年に再起したが、その頃、世の中が変わり始めた。ベトナム戦争の長期化により米国内で反戦ムードが高まり、黒人差別の壁も低くなった。アリ氏の信念に時代が追いついたのだ。

 以降はフレージャーやフォアマンら好敵手にも恵まれ、激闘や劇的な世界王座返り咲きでヒーローになった。アリ氏のような選手はもう現れないだろう」(談)

アントニオ猪木と対戦した際のムハマド・アリ(左)
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