2007年のセンバツ高校野球大会で常葉菊川(現常葉大菊川)が初優勝した。初戦で大会ナンバー1投手と評された佐藤由規(現楽天)を擁する仙台育英(宮城)を下し甲子園初勝利を挙げた。準々決勝では大阪桐蔭を撃破し、一気に頂点まで上り詰めた。3番・遊撃で、中心選手だった長谷川裕介さん(30)に当時の話を聞いた。(塩沢 武士)
カクテルライトに照らされた甲子園球場。常葉菊川の1点リードで迎えた9回裏2死一、三塁だった。全国初勝利までアウト1つ。打球は三遊間に転がった。遊撃手の長谷川さんが、回り込んで正面に入った。
「最後の打球はよく覚えている。バックハンドで捕る選択肢もあったけど、当たりが強かったので、正面に入った。前に落としたけど、すぐ拾って二塁に送球した。甲子園初勝利の打球を処理できたので良かったです」
大会初日の第3試合目で内野の状態は荒れていた。途中からはナイターの試合でボールも見えづらい状況だったが、確実なプレーで勝利を呼び込んだ。菊川にとっては、96年夏、04年春と2度の出場は、いずれも初戦敗退で、3度目の挑戦での全国初白星だった。
1点勝負の投手戦を制した。相手は、高校卒業後、ヤクルトのドラフト1位でプロ入りした佐藤だった。14奪三振を喫したが、4回にワンチャンスを生かした。前田隆一三塁手の2点適時打で、先制のホームを踏んだのが長谷川さんだった。バントをしないフルスイング野球が、菊川の代名詞のように言われたが、実は、守備と走塁が菊川の土台を支えていた。
「守備と走塁あってこその菊川の野球。内野陣はよくノックを受けていた。居残りでも、守備練習ばかりやっていた。走塁もランナーは投手のワンバウンドの投球になりそうだったらチームの約束で走っていた。積極的な走塁が相手のプレッシャーになっていたと思う」
2班に分かれた打撃練習。1組目の内野陣は、2組目の外野陣がフリー打撃している間、森下知幸監督(現御殿場西監督)のノックを受けるのが日課だった。時には、後ろに下がりながらの捕球や逆シングルなど、“規制”をもうけた。落ちているボールを監督があえて狙う時もあった。当たってイレギュラーする打球に反応することも。そんな遊び要素を加えた練習が毎日、行われていた。
初戦で“東の横綱”を破った菊川は、2回戦の今治西戦では、この年のドラフトで横浜に1位指名されたエース・田中健二朗が17奪三振で完封した。準々決勝では“西の横綱”の大阪桐蔭に逆転勝ち。続く、熊本工、大垣日大も試合終盤にひっくり返した。2回戦以外の4試合は2点差以内だった。大会前、下馬評にも上がらなかった伏兵中の伏兵が、一気に頂点へ駆け上がった。
「センバツでは優勝できたけど、個人的に打つ方は全然だった。夏の大会でリベンジしてやろうと思ってました」
春は、“守りの人”だった長谷川さんが、夏の甲子園はバットで貢献した。初戦の日大山形戦で、2本の3ランを放った。
「森下監督から、出来すぎだぞって言われたのを覚えている」
当時、史上6校目の春夏連覇を狙った夏の選手権は、準決勝で広陵(広島)に敗れた。
「春からミラクル続きで、試合がどんなに劣勢でも、神様が味方していて、俺たち負けないんじゃないかって雰囲気があった。広陵に校歌を聞いた時は、やっと負けたっと思った。自然と涙が出てきたけど、もし、連覇していたら勘違いした人間になっていたかも」
その後、法大、社会人野球のJFE東日本で野球を続けた長谷川さんは、昨季限りで現役を引退した。
「高校で身につけた技術がその後の野球人生に生きている。一番自信もってプレーしたのは、高校時代かな」
07年春から08年夏まで4季連続で甲子園に出場した。08年春は3回戦、08年夏は準優勝。ヤンキースそっくりのピンストライプの菊川が、一気に全国区へ駆け上がった。
◆長谷川 裕介(はせがわ・ゆうすけ)1989年8月26日、浜松市生まれ、30歳。小2の時に赤佐ヤングスで野球を始めた。常葉菊川から法大を経て、社会人野球のJFE東日本に入社。都市対抗には補強を含めて5度出場。昨季限りで現役を引退した。175センチ、78キロ。右投右打。