【1980年5月24日】モスクワ五輪の日本代表選手団派遣を断念

瀬古利彦
瀬古利彦

 1980年5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)の臨時総会でモスクワ五輪の参加について協議。採決では、不参加29、参加13となり、参加しないことを決めた。

 開幕57日前、選手エントリーの締め切りが翌5月25日(日本時間)に控えた状態でのボイコット。金メダル候補として期待されていた陸上男子マラソンの瀬古利彦(当時23)が「覚悟はしていた。だけど、応援してくれた人たちに恩返しができなくなってしまった」と肩を落とせば、柔道男子の山下泰裕(当時22)も「頭をガーンと殴られた感じ。最大の目標を失って…」と言葉を失った。

 本来は平和の祭典の五輪が、東西冷戦の波にのまれてしまった。1979年12月にソ連が内戦状態にあったアフガニスタンに侵攻。それに抗議した米国のカーター大統領が「ソ連が撤退しない限り、米国は五輪に参加すべきではない」と表明し、各国にも同調を呼びかけた。日本政府も2月1日に政府見解として米国を支持する姿勢を打ち出した。

 JOCは「安心して競技できる状態のもとで開催できること」を条件に参加の道を探り、246人の選手団を編成したが、政府は各スポーツ団体への補助金を凍結する可能性を示唆するなどして反対。24日午前に行われた日本体育協会(日体協)の臨時理事会には伊東正義官房長官が出席し政府の見解を説明し、派遣反対を表明。同調する形で「反対」と決議された。当時のJOCは日体協の一委員会に過ぎず、理事会の決定事項を覆すことはできなかった。

 当時、JOCの委員長だった柴田勝治氏は「残念だが(参加できる)可能性は少ないと思っていた。何とか(エントリー)ぎりぎりまで引き延ばせば道はあるかと思っていた。こういう事態になったことを反省したい」と派遣断念を明かした際に語った。柴田はその後、JOCの日体協からの独立を働きかけ、89年に独立法人化を実現させた。

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