書けなかったノムさん&ホリエモンの“赤プリ密会スクープ”…記者コラム「伝説には残らない野村番ノート」(2)

スポーツ報知
シダックスGM兼監督時代の野村克也さん(右)と沙知代夫人(2005年11月、赤坂プリンスホテルで)

 「この前、会った。でも、今は書かないでくれよ」

 眼鏡の奥にある、野村さんの眼光が鋭さを増した。スクープの誘惑と、取材相手との信頼関係。どちらを優先すべきか。

 頭の中でシーソーが激しく上下する。私は「はい」も「いいえ」も言えず、69歳の名将の前でただ立ち尽くすだけだった-。

 2004年、球界再編。初秋の出来事だ。激動の日々が続いていた。6月13日、オリックスと近鉄が球団合併合意を発表。1リーグ制移行か、2リーグ制維持か、国民的な議論が巻き起こった。

 12球団の存続を願うファンの後押しを受け、近鉄買収に名乗りを上げたのは、IT関連企業・ライブドアの社長を務めていた堀江貴文さんだった。だが、ライブドアを近鉄本社は拒絶。ならばと8月19日、堀江さんは新球団の設立構想を発表したばかりだった。

 野村さんは当時、シダックスの監督を務めていた。01年オフ、追われるように阪神監督を解任された後、03年から社会人野球に身を投じた。日本一3度を誇る名将のアマ球界挑戦は大きな話題になった。そしてその夏、都市対抗で準優勝。一度は地に堕ちた「知将・野村克也」というブランドは復権しつつあり、球界のご意見番としてテレビ番組にも積極的に出演。球界再編騒動の中でも、存在感を高めていた。

 私はその頃、野村さんの担当記者だった。新球団からのオファー、あるんじゃないですか? そう問うと決まってこう返された。「絶対ない。こんなジイさん、誰も相手にしてくれないよ」-。

 しかし、9月のある日のことだった。シダックスが練習を行う調布市のグラウンドに足を運ぶと、運良く報道陣は私ひとりだった。雑談をする中で、堀江さんの話題になった。

 そこで飛び出したのが、冒頭の言葉だった。

 69歳の名監督と、31歳の「時代の寵児」による極秘会談-。

 デスクに報告すれば、間違いなく「書け」になるだろう。

 「ノムさんとホリエモンが密会…新球団ライブドアが監督にリストアップ 強烈な個性がぶつかる38歳差の異色タッグ結成も」

 紙面イメージが脳裏に浮かんだ。十分、1面もイケる話題だ。

 当時の私は入社以来、6年間の広告営業を経て、念願のスポーツ記者になって2年目。焦りがあった。何でもいいから結果がほしかった。

 だが「今は書かないでくれ」という言葉は重い。野村さんからそんなことを言われたのは、初めてだ。取材対象の本音を引き出せるのも、日頃の信頼関係があってこそ。今後も担当は続く。「書き逃げ」は許されない。

 そもそも「今」っていつまでなんだろ…。

 悩みに悩んだ。結論から書くと、私は一歩踏み出せなかった。嫌われる勇気がなかったのだ。

 あれから10年以上、ずっと後悔は消えなかった。

 ならば直撃するしかない。もう一方の当事者に。

 *  *  *

 「2時間くらい、話したのかな。球界の中ではかなりの理論派というか。アタマ、いいですよね。『この人、結構年齢いっているけど、面白いなあ』と」

 スカイプでの取材。パソコンの画面越しに、堀江さんは「密会の夜」の真相を語ってくれた。

 15年末。デスクになった私は「幻の新球団ライブドア」をテーマに連載を企画し、自ら取材と執筆を担当した。

 堀江さんへのインタビューは想像以上にエキサイティングだった。予定の20分を大きく上回り、40分にわたって喧噪の日々を回想してくれた。

 証言をまとめると、密会の真相はこうだ。

 場所は赤坂プリンスホテルのスイートルーム。初対面だったが、意外と話は弾んだ。勝てるチームの作り方から、地域密着の重要性に至るまで、話は尽きなかった。

 極秘会談はなぜ実現したのか。仕掛人は妻の沙知代さんだったという。

 堀江さんは言った。

 「独自にものすごいアプローチがありましたから。『とにかく旦那に会ってくれ』って。後はシダックスの会長からも来ていました。『野村さんをまたプロの監督に返り咲かせてくれ』と」

 会談に同席していた、ライブドアベースボール取締役だった中野正幾さんは当時26歳。私の取材に、野村さんの印象は鮮烈だったと話してくれた。

 「経営者として戦略思考で組み立て、チームを作っていける方だなと思いました。でもその場で野村さんは一切、『監督になりたい』と言わないんです」

 「次の日、携帯に沙知代さんから電話がかかってきて。『主人が昨日、楽しかったみたいです。主人、どうしても監督をやりたいって。本当にありがとうございました』と、26歳の小坊主にですよ。沙知代さんは義理人情に厚い方でした」

 ライブドア内では「初年度から本気で勝ちに行くなら、指揮官は野村」という意見も強かったが、正式オファーは見送られた。親しみやすさが重視され、監督は阪神の駐米スカウト、トーマス・オマリーで一本化された。堀江さんはこう続けた。

 「フレッシュなイメージでいきたかったから、野村さんのイメージではないと。でも野村さんは、やる気マンマンだったなあ」

 *  *  *

 今なら少しだけ分かる。あの時、野村さんが「今は書かないでくれよ」と言った意味が。

 阪神の監督として3年連続最下位。沙知代夫人を巡るトラブルもあって、志半ばでプロ野球界を追われた。

 もう一度、プロの監督で勝負したい-。野村さんと沙知代さんはそのチャンスをうかがっていた。そこで起きた球界再編騒動。二人には千載一遇のチャンスに見えたはずだ。

 ライブドアか、あるいは…。今は見極める時期。世間に「ライブドア・野村監督」のイメージが先行してしまうのは、決して得策ではない-。

 *  *  *

 IT企業同士の新規参入バトル。制したのは楽天だった。初年度の05年、田尾安志監督で臨んだが、38勝97敗1分け。そして06年からは野村さんが指揮を執った。

 試合後の「ボヤキ」が人気を集め、野村さんがテレビ出演した時間や、新聞に掲載されたスペースを球団が広告費に換算したところ、年間300億円と算出されたという。現在では世界的な企業となった楽天の知名度向上に貢献した第一人者だろう。

 たまにあの日の眼光を思い出す。俺は絶対にまた、プロのユニホームを着るんだ。このままじゃ終われるか-。

 瞳にはそんな執念が宿っていたな、と。

 書かなかった後悔は一生、消えそうにない。(デジタル編集デスク・加藤 弘士)=随時掲載=

 ◆野村 克也(のむら・かつや)1935年6月29日、京都府網野町(現京丹後市)生まれ。峰山高から54年にテスト生で南海(現ソフトバンク)入団。65年に3冠王。70年に兼任監督となり、73年にリーグ優勝した。80年に45歳で現役を引退。本塁打王9度、打点王7度、首位打者と最多安打1度、MVP5度。89年に殿堂入り。90年にヤクルト監督となりリーグ優勝4度、日本一3度。阪神、社会人のシダックス、楽天でも監督を務めた。175センチ、85キロ(現役時)。右投右打。

 ◆加藤 弘士 1974年4月7日、水戸市生まれ。46歳。水戸一高、慶大を経て97年に報知新聞社入社。03年から野球担当。アマ野球、巨人、楽天、西武、日本ハムを取材。14年から野球デスク。計17年野球報道に従事し、今年3月からデジタル編集デスク。

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