【HAKONE LIFE】早大OB・神能竜知さん「まだまだ人生において走り続ける」

1987年大会で早大3区を走った神能さん。母・知加子さんは思わず沿道から駆け寄って伴走した。昭和ならではのワンシーンだ(神能さん提供)
1987年大会で早大3区を走った神能さん。母・知加子さんは思わず沿道から駆け寄って伴走した。昭和ならではのワンシーンだ(神能さん提供)

 早大と旭化成。日本を代表する“名門”で学業と社業に励みながら競技でも奮闘した。神能竜知さんは、筋金入りの文武両道だ。

 埼玉の進学校、春日部高時代は故障に苦しみ、競技力は県大会レベルだった。指定校推薦で早大理工学部に入学し、故障が癒えた2年生から同好会に入会。徐々に力を蓄えた神能さんは3年生の8月に競走部の門を叩いた。「1500メートルで日本選手権に出場したくて入部しましたが、駅伝の練習もすることになりました」。当時の早大は選手層が薄く、神能さんは待望の新戦力だった。

 入部から、わずか5か月。1987年箱根駅伝で3区に抜てきされた。4位でタスキを受けたが、区間最下位(当時15校出場)と苦戦し、10位に後退した。「前の晩は緊張して眠れなかった。抜かれた一人は東海大の両角速さん(当時2年、現監督)でしたね」と話す。

 4年時は6区を担ったが、2年連続で無念の区間最下位。早大は3年時は8位、4年時は9位とシード権(当時9位以内)を死守したが、満足できる結果ではなかった。「今でも屈辱感はあります」と率直に語る。

 卒業後は、技術者として旭化成に入社した。配属された勤務地は宮崎・延岡市。あの有名な陸上部の拠点だった。忙しい勤務の一方で一人で練習を続けると、実力は急上昇した。入社1年目に社内工場対抗駅伝で圧倒的な区間賞を獲得。陸上部員と同等の力を持つ“一般社員”に対し、旭化成のレジェンド宗茂・猛兄弟は「2年間、陸上部で本気で走らないか」とオファーした。神能さんは「走ります」と決断。しかし、旭化成の所属する工場長は「君はランナーとしてではなく技術者として旭化成に入ったのだからダメだよ」と陸上部入りを認めず、異例の“異動”は幻となった。

 仕事中心の生活の中でも地道に走り続け、入社5年目のゴールデンゲームズ延岡では5000メートル14分15秒4まで記録を伸ばした。そのレースで青学大の原晋監督(当時中国電力)に競り勝ったことはひそかな自慢という。

 94年に旭化成を退社し、現在は財務コンサルタントとして活躍している。「競技者としては残念な思い出が多いですが、その分、仕事で払拭するべく努力しています。まだまだ私の人生において“箱根駅伝”を走り続けていると思っています」。先行きが見えにくい今、神能さんの言葉は力強く響く。(竹内 達朗)

 ◆神能 竜知(じんのう・たつのり)1965年5月2日、北海道夕張市生まれ。55歳。6歳の時、埼玉・大宮市(現さいたま市)に転居。小学校5年から陸上を始める。84年に春日部高から早大理工学部に入学。3年の夏に同好会から競走部に移り、箱根駅伝に2度出場。88年に卒業し、旭化成入社。94年12月に退社し、現在は財務コンサルタント。双子の弟、竜哉さんも春日部高、早大同好会、早大競走部で競技を続け、箱根駅伝の登録メンバーに入った。

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