志村けんさんを悼む 「笑わせるのではなく笑われる」 みんなが愛した国民的コメディアン

志村けんさん
志村けんさん
第52回NHK紅白歌合戦に初出場したザ・ドリフターズ(2001年)
第52回NHK紅白歌合戦に初出場したザ・ドリフターズ(2001年)

 3月下旬では32年ぶりとなる都心での積雪が観測された29日の夜、志村けんさんが亡くなった。

 最期の日が雪ならば、国民的コメディアンが第一歩を踏み出した最初の日も雪が降っていた。

 1968年2月。卒業を控えた都立久留米高の3年生は、弟子入りを志願して「ザ・ドリフターズ」のリーダー・いかりや長介さんの自宅前に立ち続けた。最初は当然ながら拒否。しかし、何日も何日も通いつめた後のある日のこと。降りしきる中で12時間も立ち続け、頭にも雪が積もっていた志村さんの姿を見て、いかりやさんが「家に入れ」と言った逸話が今、思い出される。

 18歳になったばかりの高校生は付き人、コンビ活動などを経た6年後の74年、正式にドリフターズのメンバーになる。その後の足跡は説明不要だろう。半世紀にわたって全ての日本人が共有する笑いを生み出し続けてくれた。

 芸能、とりわけお笑いとは好みの世界である。誰かにとってのツボは、別の誰かにとっては理解不能なものでしかない。逆もまた然り。

 ところが不思議と、志村さんの芸をつまらないと言う人や、志村さんのことが好きではないという人には出会ったことがない。断言してしまうと、国民は皆、彼のことが大好きだった。「全員集合」も「ごきげんテレビ」も「バカ殿」も「だいじょぶだぁ」も「ヒゲダンス」も「アイーン」も「変なおじさん」も心から愛し、心の底から笑った。

 1991年に発行された雑誌「SWITCH」の志村さん特集号のインタビューで、彼はこんなことを語っている。

 「俺は基本的に笑われるのが好きなんだよな。トークとかで人を笑わせるのじゃなくて、自分が笑われるのが好きなんだ。『笑い』を出して、それに対して笑われるのが好きなんだよな」

 近年の芸人からは、逆に「笑われるのではなく、笑わせるのが芸」「笑われるようになったら終わり」といった言葉が度々聞かれるようになった。カッコ良く聞こえるし、ひとつの真実だろう。しかし「笑わせる芸」には、ちょっと緊張する。時々、怖かったりする。

 過去半世紀、日本人は完全に心を委ねて、心を任せて志村さんの芸を笑った。笑い続けた。テレビを付けた瞬間、たまたま彼の顔が映っていたら口元が少し緩んだ。希代のコメディアンにしか出来ない芸当だろう。

 29年前の雑誌で、志村さんはこんなことも語っている。

 「僕らがやっているコントというものは何年たってでも笑えると思うんですよね。流行には流されないコントなんです。ふざけて作ってるわけじゃないですから。ちゃんとそこそこ作ってあるから。いつ見ても笑えると思うんですよね。それが『笑い』の本質だと思うんです」

 「遊んでるように見せるんです。見てる人に『いいよなあ』『遊んでるみたいで』って思わせておいて、その実、中身はしっかり一生懸命やっているというのが一番。ばーっと見てて、一瞬だけ面白ければいいんです。『笑い』ってあんまり真剣に見るもんじゃないですからね」(記者コラム)

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