五輪では第2セッターとして出場。銅メダルを獲得した。96年アトランタ大会では日本戦の途中から出場、逆転勝ちの立役者となった。だが、監督はゼッターランドを必ずしもスタメンから使うことはなかった。劣勢になってからの出番が多く、必死に巻き返そうとしても届かないという試合が続いた。ようやく、ドイツとの7・8位決定戦でスタメンとなった。
「チームメートはみんな大会中、ヨーコがスタメンだと言ってくれてました。信頼を勝ち得たんだと思い、(ドイツに勝って)7位だったけど、バルセロナのときよりもはるかに気持ちは充実していました。当時の米国の新聞に、私と仲のいい黒人の2人が載っていて、米国代表は人種のるつぼで勝利をたぐり寄せたと書いてあって印象深かったですね」
その後、日本でプレーし、ダイエーではVリーグ優勝、全日本選手権2連覇を達成した。だが、その直後の99年度のVリーグは、日本選手が育たないという理由で外国人の出場を認めない決定を下した。ゼッターランドは国籍の壁に阻まれる形で現役引退を決めた。
「きっかけにはなりました。五輪のメダルよりも取りたかったかもしれない日本一になるという目標も達成したので、やりきった感はありました。競技人生を考えると悔いはなく、幸せでした。国籍に振り回されたというより、(五輪出場の)チャンスすらないと思っていたところに米国籍を選べるという選択肢があったことがプラスになった。日本の永住権も取りました。いま日本国籍がないことで困ることはほとんどありません」
引退から20年。現在は日本で東京五輪・パラリンピック組織委員会理事など要職を務める。昨年のラグビーW杯では、外国籍の選手も規定をクリアすれば日本代表としてプレーでき、「ONE TEAM」という言葉も広まった。世界中で人の移動が多くなり、五輪の国籍の考え方も変わってくるのか。
「ラグビーの選手たちを見ていると、そのスピリットは国籍だけではくくれないようにさえ感じます。その国に何年かいて、その国へのものすごい思い入れがあれば、その国の代表を目指して根を下ろしていくんだと思う。条件をそろえていくのは難しいかもしれませんが、その国の代表として、国際オリンピック委員会が認めることは不可能ではないと思います」
◆ヨーコ・ゼッターランド 1969年3月24日、米サンフランシスコ生まれ。50歳。東京・文京十中からバレーを始め、全国大会で優勝。母がヘッドコーチを務めた東京・中村高ではインターハイ、春高バレーで3位。早大卒業後、渡米。日本に戻ってからは東芝、ダイエーでプレー。現在は日女体大バレー部副部長、東京五輪・パラリンピック組織委員会理事、日本スポーツ協会常務理事などを務める。
◆国籍変更 後を絶たない
国際オリンピック委員会(IOC)の五輪憲章では、五輪に出場する競技者は、参加登録を行う国内オリンピック委員会(NOC)の国の国民でなければならないと定めている。また、国籍を変更した場合は、取得の3年後までは新しい国を代表して五輪に参加してはならないとしている。
だが、五輪に活躍の場を求めて国籍変更する選手は後を絶たない。卓球では元中国選手が層の厚い自国では出場できないと、他の国の代表として多く出場。また、オイルマネーで潤う中東諸国がアフリカの陸上選手を引き抜く手法などが問題視されている。
18年平昌冬季五輪では、国益に寄与すると認められる優秀な人材が対象で元の国籍を失う必要がない「特別帰化制度」を利用し、カナダ出身のアイスホッケー選手らが韓国代表となった。だがその後、連絡を取れなくなった選手もいる。戦禍によって難民となった選手の国籍についても、IOCが難しい判断を迫られている。
◆大坂は日本を選択、欧米は「二重」容認
大坂なおみは昨年10月の22歳の誕生日を前に、日本国籍を選択した。父がハイチ、母が日本出身で日米の国籍を持っており、東京五輪にどちらの国の代表で出場するか注目されていた。日本の国籍法では多重国籍者は認めておらず、22歳の誕生日までに国籍を選択するよう定めている。一方で欧米諸国は二重国籍であり続けることを容認する。グローバル化が進み、日本や世界のスポーツ界を見ても多重国籍の選手は増える傾向にあり、今後、検討が必要になるかもしれない。