女子バレー元米代表・ヨーコ・ゼッターランドさん、日本諦め米国で金メダル追いかけた21歳の選択 

スポーツ報知
バレーボール女子の米国代表として出場した五輪2大会を振り返るヨーコ・ゼッターランドさん

 米国と日本の二重国籍だった女子テニスの大坂なおみ(22)が昨秋、いずれの国籍を選択するか、東京五輪を前に注目を集めた。バレーボール女子ジュニア日本代表に選ばれるなど、将来の五輪代表候補だったヨーコ・ゼッターランド(50)は1991年3月、22歳の誕生日を前に米国籍を選択。92年バルセロナ、96年アトランタ両大会で米国代表として出場した。当時の心境や現在の五輪の国籍について語った。(久浦 真一)=敬称略=

 91年3月25日、都内で行われた早大卒業式終了後のゼッターランド(当時は堀江陽子)の記者会見で、報道陣は騒然となった。女子バレーの人気選手が米国代表入りを明らかにしたからだ。スウェーデン系米国人の父と、元日本代表の母との間に生まれ、日本と米国の国籍を持っていたが、米国の国籍を選択した。

 「五輪で金メダルを取るというのが、ずっと目標でした。大学で努力を続けていけば評価されると思っていましたけど、大学1年の時にジュニア代表などに選ばれた後は声がかからなくなった。そんな時に、米国ではオープンなチャンスがあると知ったのです」

 当時、大学生から日本代表に選ばれることはあまりなかった。有望選手は、高校から実業団に進むことが常識だった。大学バレーはレベルが低いとみられていたのだ。東京・中村高2年時には国体で優勝するなどの実績を持つセッターはその常識を覆そうと、関東大学リーグで6部だった早大を2部にまで引き上げた。しかし、日本バレーボール協会には評価されなかった。何とか娘の夢を実現させたいと考えていたのが母・方子(まさこ)だった。

 「米国バレーに精通されている早大総監督だった古市(英)さんが、母に大学卒業後にトライアウトを受けることを提案していたんです。米国代表を目指す選手なら、誰でも受けられるシステムでした。しかし、古市さんが90年9月に急死されて、今と違ってメールで簡単に問い合わせするとかできません。私は必死に英語で手紙を書き、古市さんの奥さまに協力していただくなどで、何とか細い糸をたぐり寄せて、91年2月の米国のテストを受けるところまでこぎつけました」

 渡米したゼッターランドは第3セッターとして合格。米国代表候補の約20人に入ることができた。入社が決まっていたフジテレビを休職。法務局に日本国籍離脱届を提出した。

 「日本の国籍がないからといって、それまで積み上げてきたバックグラウンドがなくなるわけではないんです。ペーパー上の手続きであって、五輪では国・地域に属してなければ代表になれない。日本で応援してくれる人も変わらないんです」

 91年4月、米国代表の練習に合流した。生まれて6歳まで米国にいたが、英語はほとんど話せなかった。

 「聞くことはできたのですが、話すにはボキャブラリーが圧倒的に足らなかった。ホームステイ先の子供相手に、分からないところは聞いてました。頭の中で一度日本語にして理解するところから、そのまま理解するのに3か月かかりました。バレーの練習では困ることはなかったですが、ウェートトレは日本ではほとんどやっていなかったので、きつかったですね」

 五輪という同じ目標に向かって切磋琢磨(せっさたくま)する日々。米国チームは出自など一切関係なく、実力至上主義だった。

 「いじめられることもありませんでした。みんな、自分の技術などを伸ばすことを考えているだけで、他の選手をいじめる暇はなかった。ナショナルチームは給料制で私の初任給は1100ドル(約13万2000円)。監督には最初に『貯金をしておきなさい』と言われました。米国代表はいつクビになるか分からないから、その時に備えておけという理由でした」

 同年9月には日米対抗で来日。報道陣が殺到したが、試合後の会見では全て英語で対応した。

 「まだ、たどたどしい英語だったと思いましたが、私は米国代表のメンバーなのだから、チームメートにも分かるようにと話しました」

 五輪では第2セッターとして出場。銅メダルを獲得した。96年アトランタ大会では日本戦の途中から出場、逆転勝ちの立役者となった。だが、監督はゼッターランドを必ずしもスタメンから使うことはなかった。劣勢になってからの出番が多く、必死に巻き返そうとしても届かないという試合が続いた。ようやく、ドイツとの7・8位決定戦でスタメンとなった。

 「チームメートはみんな大会中、ヨーコがスタメンだと言ってくれてました。信頼を勝ち得たんだと思い、(ドイツに勝って)7位だったけど、バルセロナのときよりもはるかに気持ちは充実していました。当時の米国の新聞に、私と仲のいい黒人の2人が載っていて、米国代表は人種のるつぼで勝利をたぐり寄せたと書いてあって印象深かったですね」

 その後、日本でプレーし、ダイエーではVリーグ優勝、全日本選手権2連覇を達成した。だが、その直後の99年度のVリーグは、日本選手が育たないという理由で外国人の出場を認めない決定を下した。ゼッターランドは国籍の壁に阻まれる形で現役引退を決めた。

 「きっかけにはなりました。五輪のメダルよりも取りたかったかもしれない日本一になるという目標も達成したので、やりきった感はありました。競技人生を考えると悔いはなく、幸せでした。国籍に振り回されたというより、(五輪出場の)チャンスすらないと思っていたところに米国籍を選べるという選択肢があったことがプラスになった。日本の永住権も取りました。いま日本国籍がないことで困ることはほとんどありません」

 引退から20年。現在は日本で東京五輪・パラリンピック組織委員会理事など要職を務める。昨年のラグビーW杯では、外国籍の選手も規定をクリアすれば日本代表としてプレーでき、「ONE TEAM」という言葉も広まった。世界中で人の移動が多くなり、五輪の国籍の考え方も変わってくるのか。

 「ラグビーの選手たちを見ていると、そのスピリットは国籍だけではくくれないようにさえ感じます。その国に何年かいて、その国へのものすごい思い入れがあれば、その国の代表を目指して根を下ろしていくんだと思う。条件をそろえていくのは難しいかもしれませんが、その国の代表として、国際オリンピック委員会が認めることは不可能ではないと思います」

 ◆ヨーコ・ゼッターランド 1969年3月24日、米サンフランシスコ生まれ。50歳。東京・文京十中からバレーを始め、全国大会で優勝。母がヘッドコーチを務めた東京・中村高ではインターハイ、春高バレーで3位。早大卒業後、渡米。日本に戻ってからは東芝、ダイエーでプレー。現在は日女体大バレー部副部長、東京五輪・パラリンピック組織委員会理事、日本スポーツ協会常務理事などを務める。

 ◆国籍変更 後を絶たない

 国際オリンピック委員会(IOC)の五輪憲章では、五輪に出場する競技者は、参加登録を行う国内オリンピック委員会(NOC)の国の国民でなければならないと定めている。また、国籍を変更した場合は、取得の3年後までは新しい国を代表して五輪に参加してはならないとしている。

 だが、五輪に活躍の場を求めて国籍変更する選手は後を絶たない。卓球では元中国選手が層の厚い自国では出場できないと、他の国の代表として多く出場。また、オイルマネーで潤う中東諸国がアフリカの陸上選手を引き抜く手法などが問題視されている。

 18年平昌冬季五輪では、国益に寄与すると認められる優秀な人材が対象で元の国籍を失う必要がない「特別帰化制度」を利用し、カナダ出身のアイスホッケー選手らが韓国代表となった。だがその後、連絡を取れなくなった選手もいる。戦禍によって難民となった選手の国籍についても、IOCが難しい判断を迫られている。

 ◆大坂は日本を選択、欧米は「二重」容認

 大坂なおみは昨年10月の22歳の誕生日を前に、日本国籍を選択した。父がハイチ、母が日本出身で日米の国籍を持っており、東京五輪にどちらの国の代表で出場するか注目されていた。日本の国籍法では多重国籍者は認めておらず、22歳の誕生日までに国籍を選択するよう定めている。一方で欧米諸国は二重国籍であり続けることを容認する。グローバル化が進み、日本や世界のスポーツ界を見ても多重国籍の選手は増える傾向にあり、今後、検討が必要になるかもしれない。

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