【あの日の五輪】分岐点のハローワーク時代…2004年の野口みずき(中)

2004年の青梅マラソンの女子30キロの部で、1時間39分9秒の日本新記録を叩き出して優勝した野口みずき
2004年の青梅マラソンの女子30キロの部で、1時間39分9秒の日本新記録を叩き出して優勝した野口みずき

 アテネ五輪での金メダルまで、圧倒的な勝負強さを見せてきた野口。マラソンはもちろん、ハーフでも日本歴代3位の1時間7分43秒をマークし、通算34戦21勝という圧倒的な勝率を誇った。

 「レースで大きく外すことはなかったですね。本当に少しずつ階段を上っていく感じで。ただ、社会人1、2年目は足踏み状態でしたけど、あの“ハローワーク時代”の4か月が競技人生のターニングポイントだったと思います」

 1997年、当時18歳の野口は実業団の名門・ワコールに入った。だが翌年の12月には、会社側と対立した藤田信之監督が野口や96年アトランタ五輪女子マラソン代表の真木和らを連れて退社。ハローワークに通い、失業保険を受けながらのトレーニングが始まった。

 藤田監督の住んでいた京都・西京極競技場のそばの団地。たまたま空いていたという同じ団地内の3LDKを2部屋借りて、選手とスタッフは自分たちで共同生活の基盤を築いた。

 「料理部屋もあって、自分も作ったりしているうちに、(前は)『あっ、恵まれた環境でやっていたんだな』と。食事なら、皿洗いもせずに『ごちそうさまでした』と言って食器を返すだけだった生活から、全て自分たちで作って片付けて。どれだけ甘えていたか思い知った」

 再び所属先が見つかるのか、自分たちはまた走れるのか―。そんな不安との闘いでもあった4か月。将来が見えたとき、芽生えたのはプロ意識だった。

 「何するにも一生懸命というか、向上心も出てきて。恩返ししたいという思いだったり、ユニホームを着て走るっていうのは当たり前じゃない、と感謝できるようになった」

 新所属が決まると、走れる喜びをかみしめながらトレーニングを積んだ野口はぐんぐん成長した。99年の世界ハーフ銀メダル、03年パリ世陸マラソンも銀メダル。国際大会でも存在感を示した。

 「自分の記録をどんどん塗り替えて、練習もきついことができるようになって。毎日が楽しくて仕方がなかった」

 アテネ前も青梅マラソンで日本新記録(当時)をマーク。その後はレース直前まで中国・昆明やスイス・サンモリッツなどの高地でトレーニングを積んだ。心肺に負担がかかる場所でも平地と走るタイムが全く変わらないことから、藤田監督には「高地で五輪があれば、間違いなく金メダル」と太鼓判を押されるようになっていた。(太田 涼)=敬称略、つづく=

 ◆アテネ五輪の名場面 日本は計37個のメダル(金16、銀9、銅12)を獲得。女子マラソンの日本勢2大会連続金メダルに加えて、競泳でも3個、体操でも男子団体総合が表彰台の中央に立った。北島康介は100メートル&200メートル平泳ぎを制して2冠を達成。名言「チョー気持ちいい」は流行語大賞にも選ばれた。体操男子団体は最終演技者の冨田洋之が9・850点をマークしてモントリオール大会以来、28年ぶりの世界一。「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」は名実況として語り継がれている。

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