【あの日の五輪】覚悟のメダルだから言えた 1996年の有森裕子(下)

2大会連続の五輪メダル獲得を振り返った有森裕子
2大会連続の五輪メダル獲得を振り返った有森裕子

 1992年バルセロナ五輪女子マラソン。有森裕子はワレンティナ・エゴロワ(当時は独立国家共同体)とモンジュイクの丘で死闘を繰り広げた末、銀メダルを獲得した。日本女子マラソン初の快挙。25歳の爽やかな美人ランナーは一躍、時の人になった。

 「私はメダルを獲得したことで変化を起こせると思ったが、そうではなかった。お祭り騒ぎが終わったら、何も変わっていなかった」。今、53歳になった有森は冷静、かつ率直に話す。

 92年当時、陸上選手の肖像権は日本オリンピック委員会(JOC)が一括管理していた。疑問を呈した有森に対し、周囲の反応は冷たかった。「新しいことを言うと、テングになっていると批判された」。同じ時期、右かかとを痛め、レースから遠ざかっていた。「燃え尽き症候群と言われましたが、そんな単純なものではなかった」と強調した。

 現在では陸上選手がプロとして活動することは当たり前となっているが、当時は選手の自由な判断が認められていなかった。

 先に結論を言えば、有森が実質的な「プロランナー第1号」となるのは96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した後になる。97年1月にリクルートの契約選手となり、事実上のプロ宣言。同年4月には日本陸連の選手登録が保留扱いとされたが、99年にようやくJOCはプロ活動を認めた。「理不尽な闘いでしたが、今となっては意味のある闘いだったと思えます」と柔和な表情で振り返る。

 発言力や説得力を高めるためにアトランタ五輪でも、目に見える結果が必要だった。

 「分かりやすく言うと、バルセロナはwant to(したい)。五輪に出たい、メダルが取りたい、だった。でも、アトランタはhave to(しなければならない)。五輪に出なければならない、メダルを取らなければならない。それだけの覚悟で臨み、そして、メダルを取れた。だから『初めて自分で自分をほめたい』と言えました」

 それまで日本陸上界において2大会で五輪メダルを獲得したのは32年ロサンゼルス、36年ベルリンの棒高跳びでともに銀に輝いた西田修平だけだった。女子では有森が初めて。その後、2000年シドニーで高橋尚子、04年アテネで野口みずきがマラソンの金メダルを獲得したが、その2人のレジェンドでも五輪のスタートラインに2度立つことはできなかった。現在でも日本陸上女子で2つの五輪メダルを持っているのは有森だけである。(竹内 達朗)=敬称略、おわり=

 ◆1996年(平成8年)の世相 1月に村山富市首相が退陣し、橋本龍太郎内閣が発足。5月に2002年サッカーW杯が初めて日本と韓国の共催となることが決定。「10・6決戦」で巨人が中日に勝ち、2年ぶりにセ・リーグ制覇。最大11・5ゲーム差をひっくり返す「メークドラマ」を成し遂げた。日本シリーズではイチロー中心に戦ったオリックスが優勝。渡辺淳一の「失楽園」がベストセラーに。日本レコード大賞は安室奈美恵の「Don’t wanna cry」。

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