ノムさんは公式戦以外でも活躍、1960年の日米野球で最優秀選手に…ムースの愛称はここで

日米野球に出場した(左から)金田正一、野村克也(1960年11月)
日米野球に出場した(左から)金田正一、野村克也(1960年11月)

 野村克也さんは選手時代、公式戦の活躍だけでなく、パ・リーグの優勝に貢献して日本シリーズに6回出場。プロ野球を代表する選手として、プロ野球記録のオールスター戦21回出場。そして、日米野球にも通算42試合に出場して雄姿を披露していた。

 残念ながら日本シリーズでは通算5本塁打しているものの、打率は2割3分。3発打った1961年も巨人に敗れるなど日本一は杉浦忠の4戦4勝した1959年とスタンカが2試合連続完封含め3勝した1964年の2度だけ。もっとも、その2シリーズ、野村さんのリードも良かったからと言えなくもない。

 オールスター戦の通算48安打、15二塁打は、あの清原和博でも抜けなかった不滅の記録(通算打率は2割8分7厘、3本塁打、16打点)。通算3度MVPに輝いている。中でも1958年は2試合合計6打数3安打1打点の活躍で、当時の2試合シリーズを通じてのMVPに輝いて、野村克也ここにあり、全国のプロ野球ファンに知らしめた出世シリーズでもあった。

 この時のコメントが面白い。打撃に関しては「大丈夫」と話す一方で「実は今夜西鉄の稲尾(和久)投手の球を受けながら少し心配になってきたんです。ウチが西鉄とやるときあんなピッチングをされたら…と心配になりましたよ」と大和球士さんに答えている。

 前半戦終了時に西鉄は、首位南海に10・5ゲーム差の3位だった。しかし、23歳の捕手は、稲尾の実力を熟知。前半戦16勝9敗だった右腕の後半戦は17勝1敗。南海戦に限ると7戦6勝1分け。シーズンを通じて32打数6安打4打点だった2人の対決だったが、最終4試合はノーヒット、前半戦リーグ最多の16本塁打を放っていた主砲は、後半戦完璧にバットの勢いが止まって5本止まり。リーグ優勝も2年連続本塁打王も逃し、西鉄の大逆転の相手役を務めただけ。オールスター戦の時点で、予測していたことも、その後の監督人生の見事なまでの洞察力があったのでは、と思ってしまう。

 日米野球の成績は1956年ドジャース戦10打数ノーヒット、1958年カージナルス戦19打数1安打(本塁打)、1962年タイガース戦16打数2安打(1本塁打)、1968年カージナルス戦10打数2安打と決して芳しくない。ただ、1960年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦だけは39打数14安打(1本塁打)9打点。打率3割5分9厘は日本選手断然トップで最優秀選手賞(最高殊勲選手賞はジャイアンツのウィリー・メイズ)に選出されている。読売新聞社が招請した日米野球だったが2年連続首位打者の長嶋茂雄は右太もも肉離れの影響で3試合5打数ノーヒットで離脱。2年目の王貞治は8試合に出場も12打数ノーヒット8三振と巨人期待の2人が散々だったシリーズだ。

 このシリーズで西鉄・豊田泰光遊撃手と2人だけ全日本15試合すべてに出場。全日本は3勝11敗1分けと大きく負け越した中での奮闘ぶりで来日したソルティ・パーカーコーチが選んだ全日本の捕手にもちろん選ばれた。同年11月10日付け報知新聞は同コーチの原稿を掲載しているが、その中で「捕手は野村だ。我々は彼にブル・ムース(牡の大鹿)というニックネームをプレゼントした。その名のいわれは、要するに彼の体が(他の日本選手よりも)大きいからだ」と書いている。彼らはがっちりした体の捕手が見せた好打好守にそう感じたのだろう。そして、彼のその後のたゆまない努力によっての素晴らしい成績を残したことで、決定的なニックネームになったと言えるだろう。(蛭間 豊章=スポーツ報知ベースボール・アナリスト)

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