打倒メジャーへ“ノムさんJAPAN”が10試合だけ実現していた…その結果は

楽天監督時代の野村克也さん
楽天監督時代の野村克也さん

 戦後初の3冠王で3度の日本一に輝いた名将、野村克也さん(享年84)が11日に亡くなったショックはまだ尾を引いているが、息子の楽天・野村克則作戦コーチ(46)が15日に沖縄・金武町のキャンプに再合流したことで球界は次の時代へと動き出したと理解したい。

 それでも振り返るべきことは山ほどある。ノムさんの究極の夢は、高校野球の監督、さらには巨人の監督だったが、真の夢は打倒メジャーだった。五輪やWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の大舞台ではなかったものの、“ノムさんJAPAN”は10試合だけ実現していた。

 1996年と2006年、日米野球で全日本監督を2度務めている。

 楽天監督時代の06年11月に開催された日米野球で、全日本を率いた“ノムさんJAPAN”を担当した。いつもは“敵将”巨人の監督が座っている東京ドームの一塁側ベンチに腰を下ろし、メジャーへの熱い思いを聞かされた。

 「大リーグに追いつき、追い越せ。日本野球の実力を見せろ。大和魂だ。戦争で負けた敵(かたき)を討て」

 選手としての日米野球は南海時代の1956年にさかのぼる。ブルックリン・ドジャースとの交流戦で5試合に出場し、10打数無安打。1962年、11月17日のデトロイト・タイガース戦(後楽園球場)では、阪神のエース・村山実とのバッテリーで完封勝利。バックスクリーンに本塁打も放った。メジャーと対戦する度に、試合前に相手ベンチまで行って、メジャー仕様の用具をもらったことをうれしそうに語った。南海と同じ緑がチームカラーだったアスレチックスの、黄色のワンポイントカラーを南海のユニホームに取り入れたというエピソードも明かし、メジャーへの憧れは人一倍だった。

 ヤクルト監督時代の96年に日米野球で初采配。野茂英雄(ドジャース)が日本人メジャーリーガーとして初めて全米チームで凱旋し、これに対して全日本は、イチロー(オリックス)、松井秀喜(巨人)、松井稼頭央(西武)が初出場。後にこの3人がメジャーで活躍したことを思うと歴史的大会だったと言える。

 7試合が行われたが、福岡での試合はダイエー(現ソフトバンク)の王貞治監督、横浜での試合は横浜(現DeNA)の大矢明彦監督が務め、指揮系統があいまいな中、ノムさんは5試合を担当して、初戦(11月1日・東京ドーム)こそ、斎藤雅樹(巨人)、川尻哲郎(阪神)、河本育之(ロッテ)、赤堀元之(近鉄)、佐々岡真司(広島)、佐々木主浩(横浜)の6投手小刻み継投で6―5で先勝したものの、結果は1勝3敗1分け(全日本としては2勝3敗2分け)。

 そして06年の日米野球。井口資仁(ホワイトソックス)、城島健司(マリナーズ)が凱旋したが、10年前とはメジャーが身近になりすぎたのか、ファン投票で選ばれた全日本メンバーに辞退者が続出。4連敗で迎えた最終第5戦(11月8日・福岡ヤフードーム)は、新井貴浩(広島)、村田修一(横浜)のソロ本塁打などで延長の接戦を演じたが、10回にサヨナラ負け(3-5x)。“ノムさんJAPAN”の通算成績は1勝8敗1分けだった。

 「メジャーとの大きな差は感じなかった。日本の方が野球をやっていた。“スモール・ベースボール”では日本が上をいっている」私は06年の野村ジャパンを見届けて野球の現場から外れた。「真のワールドシリーズができるよう、日本のプロ野球は発展を続けなければならない」関わった者としてこのノムさんの遺言を語り継がねばならない。(記者コラム・酒井 隆之)

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