氷川きよし、母のため頑張ってきた ゼロからリスタートの生まれついてのベイビー…祝20周年、構想3年の新曲「母」発売(本音インタ前編)

デビュー20周年を迎え、新たなスタートを切った氷川きよし
デビュー20周年を迎え、新たなスタートを切った氷川きよし

 歌手の氷川きよし(42)の新曲「母」が4日に発売された。2000年2月2日に「箱根八里の半次郎」でデビューしてから丸20年。今作は構想から3年で結実した力作で「今回は自分の意見をいわせていただきました。20年という区切りで発売できて良かった」。目を細めながら「赤ちゃんが生まれるような気持ちで『母』を歌いたい」と新たな決意を口にした。イケメン演歌歌手としてデビューし、20回連続NHK紅白歌合戦出場し、06年には日本レコード大賞受賞。20年間に渡り歌謡界を牽引してきた。これまでの歩みを振り返り氷川の本音に迫った。(2回に渡ってお届けします)

 「母」は作詞・なかにし礼、作曲・杉本眞人のコンビだ。なかにし氏は8年前に「櫻」を手掛けており、それ以来のタッグとなった。

 「スタートは3年前です。なかにし先生のテレビ特番にゲストで呼ばれまして、収録現場の楽屋で『そろそろ一緒に始めようか、どういうテーマがいい』とおっしゃっていただいたのが出発でした。詞が上がってきたのが昨年の明治座での公演中です。先生の詞は物語性があって、どちらかというと演歌の作りじゃないじゃないですか。読んでいると自然と涙が出て『自分は今まで母のために頑張ってきたんだな~』って改めて感じましたね。これをいつのタイミングで出そうと考えた時に、デビューして丸20年してからにしようと決めてました」

 ―杉本眞人氏とは初めての顔合わせになった。

 「杉本先生には以前から『いつか一緒にやりたいね』といわれていました。僕も先生のメロが大好きでいつか歌いたいとずっと思っていたら、なかにし先生のご指名が杉本先生でした。これも縁でしょうね。『お二人とお仕事したい』と念じていたんで引き寄せられたというか、今のタイミングなんだろうなと感じました」

 曲が上がって来た時には戸惑いもあった。氷川には杉本氏が歌ってヒットした「吾亦紅」のイメージを感じていたという。

 「詞を読んだ時に涙して、曲を聴いた時には正直『ウン?』という感じでした。どうしても『吾亦紅』のイメージが…。あの曲も杉本先生が亡くなったお母さんを歌っているんで(曲調が)ちょっとそちらに傾き過ぎじゃないのかなって。それがずっと気になっていて、明治座が終わって海外を休暇旅行していた時、なかにし先生から電話が来てお話ししました。『ずっと作品の事が気になって…』。『何かあれば言ってよ』『先生、本当に生意気なんですが“吾亦紅”と違う氷川きよしのお母さんという風にしたいんです』『なるほどね』―。そしたら先生がアレンジも全部考えてくれました」

 若草恵氏のアレンジによって、当初抱いていたイメージは払拭されたそうだ。

 「事務所のみんなと『どうなるんだろうね』と心配していましたね。でも若草先生から届いたアレンジがせつなくてエレガントな儚さと麗しさがあって、途中で温かいメロにもなるすばらしい仕上りでした。氷川きよし等身大の生きている母、ちょっと年を取った母を作っていただきました。本当に生意気だと思いましたが言って良かった。そこは僕も40歳過ぎて、いろいろ経験させていただき、音楽には耳が肥えている所もありますから…」

 レコーディングは2人の大作家を前に苦戦が続いたという。

 「最初、淡々と冷静に歌ったら、なかにし先生から『おい、目の前でお母さんが死ぬんだよ。生きて下さい、絶対に死なせないで下さい。神様に助けを求める思いだよ』って。まったくその通りで母親が死の瀬戸際にいる時は冷静ではいられないですよね。デビュー5周年ぐらいに母の生命にかかわる危機があって『お母さんが死んだら歌えない』ということを思い出しながら収録しました。杉本先生からもご指導をいただき、久しぶりに緊張感、熱いモノを感じながらのレコーディングでした。作詞家、作曲家、歌手の三者の思いが表現されたと思います」

 発売前に福岡の親戚や母親に収録したデモ音源を聞かせたそうだ。

 「親戚に焼き鳥屋さんをやっている叔母さんがいて、一番に『これ新曲になるかもしれない』って聞かせたら、電話越しにワンワン泣いて『あんたのお母さんに対する思いが伝わってくる。これ、全国のファンが聞いたら全員泣くばい』って。ウチのお母さんは『私の歌やろ、よか歌やな』っていう感じでしたね。母はどっちかというと体も弱いですし、線も細くて社交的なタイプでもない控えめな方です。母にはこれからも元気でいて欲しいし、やっぱり母が死んだら歌う気持ちになれないんじゃないかなと思います。母とは毎日つながっている感があるというか、息子というよりも姉弟のように『お互い何でも分かっているよね』みたいな気がしてます」

 昨年は「大丈夫」のヒットはもちろん、アニメ「ドラゴンボール超」の主題歌「限界突破×サバイバー」が話題となり、紅白やレコ大でもビジュアル系のド派手なステージを披露した。

 「昨年はやりたいことの五割はできたなって。もうちょっとね、テレビとかもっと歌える場所があればいいとは思いました。紅白は20回出て初めて『気持ちよかった』と思えました。それまでは緊張とプレッシャーの方が強くて、爽快というか、歌い終わった後に『どうでしたか』と聞かれて『すごい気持ち良かったです』とポロッと本音が出ました。特に『限界突破―』の詞が今の自分に合っていたから入り込みやすかったですね。(アニメとかは)あういうのはこれからもやっていこうと思っていますが、本筋は演歌歌謡曲。紅白はもう終わった事なのでまた一からやり直しです。20年やっていますが、全部をゼロにしてスタートという意味を込めて『母』です。生まれたてのベイビーです。バブーといいながら歌いたいです」

 デビューして丸20年経つが、出発は高校から始まった。茶髪にピアス、演歌歌手とはかけ離れた見せ方で世間をあっと言わせた。これも卓越した自己プロデュース能力があったからだ。

 「演歌に目を付けたのは『自分が演歌を歌ったら珍しいだろう』という考えからです。それまでポップスを歌っていました。当時の演歌のアイドルは水田竜子さんや林あさ美さんらがいましたが、男の子の枠ならいけるかなと感じました。事務所も大きな所を狙っていてバーニング(プロダクション)さんか広済堂(現長良プロダクション)。芸能界は力関係もあるだろうし、大手じゃなきゃ売れないと思っていました。その辺りは意外と商売人なんです。たぶん、頭が女脳なんでしょうね。16歳の時から家族を養わなくちゃいけないと、本気で考えていましたからね」

 ―行動も素早かった。

 「高校の時には(バーニングの)周防(郁雄)社長や(当時『広済堂』の)長良(じゅん)社長にデモテープ送ってました。そこがダメだったので作曲家の水森英男先生に近づこうと、先生が審査員をしているNHKの勝ち抜き番組に出たんですね。『そこで声をかけられるだろうな』と思っていて、狙い通りに声掛けていただき先生の内弟子になりました(笑い)。そのころは僕、とにかく生意気で『ビクターに入りたい』とか『バーニングがいいんです』とか。『バカ野郎、お前が決めるんじゃないんだ』って先生に怒られていました。僕、門倉有希さんが好きで『こんなロック演歌を歌える陰がある歌手になりたいな』って思っていて(美空ひばりの担当ディレクターで門倉を手掛けた)境弘邦さんにも何回かテープ送っています。もう全部調べていました。結局、みんなに断られました」

 ―デビューの決め手は。

 「僕が3年半内弟子やってきたので、水森先生も最後の賭けで長良会長に直談判したんですね。3曲歌ったら会長が『いけるな。じゃあやるか』って。先生が泣いて『よかったな山田(氷川の本名)』と言ってくれてたのを覚えています。その時に今のマネジャーが『また売れない子を引き取って。結局、ウチは広済堂じゃなくて救済堂だよ』って言ってましたね。今でもそれは根に持ってます(笑い)。でもデビューしてから『私がマネジャーやります』って秘書を辞めてからずっとマネをやってくれています」

 「箱根八里の半次郎」でデビューすると、またたくまに“氷川きよし”の名前は日本中に知れ渡り、分刻みのスケジュールをこなす売れっ子に。年末にはレコ大最優秀新人賞、紅白歌合戦の切符まで手にしていたが、まだ自信はなかったそうだ。

 「当初は『股旅もの? どうせならもっとしゃれた曲がよかったのに』と思っていました(笑い)。デビューしてからは自分が考えるより、すべてが速いペースで何事も進んでいて、正直ワケが分かりませんでした。歌手としてやっていけると確信したのが、デビュー翌年の中野サンプラザでの単独公演。この時に『自分は歌手なんだ』と。責任も感じる一方で売れる前の光景が浮かびました。まだ名前が知られていない時、キャンペーンで全国各地を回っていた時、ある会場で3人しかいないお客さんの一人から『体に気をつけてね』と声を掛けていただきました。自分は、そんな人のために歌いたいと誓ったことを思い出しました」

 ◆「ボヘミアン・ラプソディ」への思い

 昨年12月のコンサートで、英バンドのクイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の日本語版を披露した。

 「この世界にいる限り人と違うところをいかないといけないと思っています。三波春夫さんの『俵星玄蕃(たわらぼしげんば)』を若手の歌手の方がたくさん歌っていて、それぞれ個性が際立っています。自分もそこに行こうかなと思ったりもしましたが、やっぱり『俵星』は三波さんの歌なんですよ。自分がやってもしょせんマネごとになったと思うから、違い所でそういったドラマ性のある作品をアンテナ張って探していました。たまたま映画『ボヘミアン―』で歌を聴いた時に『これだ」って。ドラマ性もあってフレディ・マーキュリーの苦悩もある。どうしても歌いたい。それも日本語で。フレディの45年という短い時間で終わった命を感じて歌いたい。それで湯川れい子先生に相談したら『分かった。ちょっと時間かかるかもしれないけど頑張ってみる』って。6月にお願いして10月にOKが出ました。そこから12月の国際フォーラムまでに日本語をはめる作業を繰り返し。『母』と同時進行のタイトなスケジュールでしたが『ボヘミアン―』もお母さんを歌っていて、今回偶然にも母繋がりになりました。後者ではフレディの苦悩を感じながら、前者では氷川きよしの人生を歌いたいと思います」

 ◆素に戻る時

 ―素に戻れる時は。

 「やっぱり実家に帰って親といる時ですかね。東京にいるとやっぱり“氷川きよし”と思ってどうしても意識しちゃいます。どこにいても写真も撮られているなって思っちゃうし、常に気が張っていますよね。撮られていないと思ったら、この間もドン・キ(ホーテ)で撮られてました。どうやって後をつけているのか分からないですよ。(以前は40歳までに結婚したいといっていたが)自分長男ですからね。結婚はしたいですしあこがれますよ。安定も欲しいし。なんか結婚って『誰かのモノ』っていう風な感じが演歌的でいいですよね」

 【恩師・長良じゅん会長を語る】

 「(2012年に亡くなった『長良プロダクション』の)長良会長はどこの馬の骨とも分からない山田清志という、福岡から歌手にあこがれて上京してアルバイトしている青年を“氷川きよし”にしてくれた方です。水森英男という作曲家の大先生がいて、信頼関係の中で会長が『氷川きよし』というきれいな名前を考えてくれて、北野武監督が背中を押してくれてました。会長はいつも『10周年まで頑張れ。そこまで作れたら大丈夫』といっていました。自分の中では『いった』感じもありましたが、会長には決まって『まだまだ』といわれ続けていました。今のマネジャーには『担当を10年やれる歌手はいないぞ。だから一生続けていけ。人間対人間だから、いろいろあるけど、そこでも乗り越えてチーム一丸でやっていけ』とおっしゃっていました。生前から今の社長(神林義弘氏)とも『仲良くやっていけ』と。亡くなる2週間前くらいにも『頼むぞ』っていわれたのを覚えています。

 会長は僕のやることを否定されませんでした。ファッションにしても常に『いいんじゃないか』って。『お前と俺は似ているな』っていわれた事があって、僕もぶっ飛んでますが会長もかなりのもので『虹色のバイヨン』の時には、布みたいなのをかぶせられて『アラビアのロレンス風にした方がいい』って。あれもびっくりしました。『きよし、やっぱりインパクトだぞ、なんでも。笑われるほどお前の顔と名前が覚えられるからな。笑われないといけない』。売れたからってお高く止まるんじゃなくて『バカになってやれよ』って。その言葉は今でも心の中に生きています」 (ペン・国分 敦、カメラ・竜田 卓)

 ◆氷川 きよし(ひかわ・きよし)本名・山田清志。1977年9月6日、福岡市生まれ。42歳。ビートたけしから芸名を命名してもらい、2000年2月に「箱根八里の半次郎」で歌手デビュー。同年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。「NHK紅白歌合戦」に初出場して以来、昨年まで20回連続場している。06年には「一剣」で日本レコード大賞を受賞。08年には紅白で初めて大トリを務めた。近年はアニメ主題歌にも挑戦し今年は「ドラゴンボール超」の主題歌「限界突破×サバイバー」がブレイク。ビジュアル系メイク&衣装で歌うステージで世間を驚かせた。身長178センチ、体重62キロ。血液A型。

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