タイガー服部ヒストリー【2】「ハルク・ホーガンとの出会い」…2・19後楽園で引退記念大会

マットを叩き続けた左手を見せるタイガー服部レフェリー
マットを叩き続けた左手を見せるタイガー服部レフェリー

 新日本プロレスのタイガー服部レフェリー(74)が19日の後楽園ホール大会でおよそ44年及ぶレフェリー生活から引退する。明大レスリング部時代に全日本選手権優勝など輝かしい実績を残し、1970年代に米国でプロレス界に飛び込んだ。服部氏自身によると76年にフェリーとしてのキャリアがスタート。以来、全日本、新日本、ジャパンプロレスでレフェリーを務め、90年代に入るとメインレフェリーとして新日本の黄金時代を支えてきた。新日本は、長年の功績をたたえ「引退記念大会」を19日に後楽園で開催。記念の興行を前に「WEB報知」では服部レフェリーを独占インタビュー。「タイガー服部ヒストリー」と題し19日の引退興行当日まで連載します。第2回目は「ハルク・ホーガンとの出会い」。

 1970年、フロリダ州タンパで開催されたレスリングの全米選手権に出場した服部正男は、大会で優勝した。スポンサーはエディ・グラハムが主宰するプロレスのプロモート会社「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」。このプロモート会社の幹部だったのが日本人レスラーのヒロ・マツダだった。

 「全米選手権に出場したら勝っちゃってね。最高選手賞みたいなのをもらっちゃったんだよね。それで試合が終わったら、マツダさんに“君は何をやっているの?”って聞かれて“柔道を教えてます”って答えたら、マツダさんが“独身か?”って聞くから“はい。独身です”って言って、“だったら、フロリダに住みなよ”って誘われたから“いいですよ”ってなって、そこからタンパでレスリングを教えることになったんだよね」

 服部をコーチにスカウトしたマツダは「ヒロ・マツダ柔道レスリングスクール」を設立し、地域の若者、子供たちにレスリングと柔道を教える教室を開いた。

 「道場では、教えるだけじゃなくていろんなことやってたよ。覚えているのは、たまにカウボーイみたいなのが道場破りに来てね。そうするとエディ(グラハム)が“めちゃくちゃにしろ!”って言われて、やっつけったこともあったよ(笑)」

 道場を開いて間もなく身長2メートル近い高校生がやってきた。

 「そこに来たのがハルク・ホーガンだったんだよ。まだ、ホーガンが16歳の時でね。たまたま、オレがタンパで借りたアパートの裏にホーガンがお母さんと住んでいてね。それで知り合いになって“レスリングを教えてくれ”って頼まれて、そこから彼がスクールに来ることになったんだよ」

 ハルク・ホーガン、本名テリー・ボレアはタンパ出身。80年代に入り日米のマット界でカリスマとなるスーパースターは、1970年、16歳の時に服部と出会いレスリングを始めた。いわば服部がホーガンをレスリングへの道へ誘ったと言える。

 「ところが、あいつは、スクールに来て3か月ぐらいでスパーリングをやっている時にマツダさんに足首を折られてね。それは、マツダさんが、わざとやったかどうかはわからないんだけど、そこからいなくなって、同じフロリダのメルボルンっていう町に行ってしまったんだよね。ただ、1年半ぐらいして戻ってきた時にオレの家のドアを叩いて、再会したら、すごい体になっててビックリしたよ(笑)」

 マツダに足首を折られた失意を糧にしたのかどうかは分からない。ただ、ホーガンは、服部と離れた1年半の間で肉体を鍛え上げ、驚くほどの筋肉で固めた体に変貌していた。南フロリダ大学に進むとホーガンは、「ラッカス」と名付けたロックバンドを結成しベースを担当していた。

 「オレのマンションの隣の部屋があいつのバンドのメンバーでね。そういう縁もあって、彼のロックンロールもライブハウスにしょっちゅう聴きに行っていたよ。シナリガンっていう店だったかな。たまにボーカルもやっていて歌もうまかったよ」

 ホーガンは77年、24歳の時にプロレスラーとしてデビューする。そして、服部もレフェリーとなる。(続く。敬称略。取材・構成 福留 崇広)

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