【野村番記者が悼む】おしゃべり好きのくせに照れ屋、能弁も言葉足らずで誤解される

テレビ局のアナウンサーから虎の絵柄のブリーフを贈られ苦笑いの阪神・野村克也監督
テレビ局のアナウンサーから虎の絵柄のブリーフを贈られ苦笑いの阪神・野村克也監督

 2000年の秋、担当記者に頼まれ、内勤部署だった私は甲子園球場へ野村監督を訪ねた。室内練習場で指揮官と話していたのは、他社の大ベテラン記者1人だけ。私が近づくと、監督付き広報が行く手を遮ろうとした。「コイツは、ええ」。この一言で、たわいもない雑談に加わった。三顧の礼で迎えられた阪神の監督は、2年目も最下位が確実な情勢だった。各紙担当記者とは口もきかず、南海時代を知る関係者も避け「ノムさんは関西が嫌い」とささやかれていた。

 私は野村監督と同じ京都府最北端の網野町(現・京丹後市)生まれだ。「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど雨が多く、冬には雪も積もる。「陰気なところで育ったから口が重たくなったんや」といいながら、おしゃべり好きで、サービス精神も旺盛だった。ボヤキ節は代名詞でもあり、各社がこぞって全文を載せた。だが、能弁なわりに、言葉足らずで誤解されることも多かった。

 幼少時代の極貧ぶりは何度も紹介されている。父が亡くなり、頼みの母もがんを宣告された時には、兄と幼い2人は近所の素封家(そほうか=大金持ち)に預けられたという。母は奇跡的に病を克服したが、優秀な兄が進学を断念したことで野球を続けられたという。

 南海では戦後初の3冠王に輝き、プレーイングマネジャーとしては乏しい戦力でリーグ優勝も果たし、名将の名をほしいままにした。ところが、沙知代夫人がチーム内部のことに口出しをしたとされ、前代未聞の「公私混同」を理由に監督を解任された。母の死、監督解任、西武での現役引退と節目ごとに、生まれ故郷、育てられた関西の地と疎遠になっていった。

 1990年11月3日、町民栄誉賞の受賞のため久しぶりに網野町に帰郷した。その夜、お世話になった人、昔一緒に白球を追いかけた仲間らと共に、実兄の姿があった。兄は、なしのつぶての弟をなじった。連絡があったことすら知らされていなかった弟は、共通の知人を通じ2人が直接連絡するルールを決めた。

 おしゃべり好きのくせに照れ屋で大事な一言が足りず誤解される。どん底と栄光、惨めさと絶対的な自信、振れ幅の大きさが、球界で異彩を放った「ノムさん」をつくったのだと思う。合掌。

(報知新聞社OB・井上 成人)

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