ヒット作多数の「流行作家」でもあったノムさん…本紙に明かした「読書論」インタビュー再録

スポーツ報知
著作を前にして笑顔の野村克也さん。左襟には監督通算1500勝の記念ピンが輝いていた。

 南海の強打の捕手として1965年には戦後初の3冠王に輝き、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野球評論家の野村克也氏が死去した。84歳だった。野村氏は卓越した野球理論を誇り、数々の「ノムラ本」を世に送り出したことでも知られる。スポーツ報知は「読書論」をテーマに09年末、知将にインタビュー。書物を通して得た「ID野球」「ボヤキ」の原点とは何か。あらためてお届けする。(加藤弘士、北野新太)=敬称略=

 テーブル上に広げられた著作の山を見て、野村はしみじみとつぶやいた。

 「ようけ出してんな。ようけ…。でも(印税で)いい思いしてるのは奥さんだけや」

 隣の沙知代夫人「老後のためでしょ。この人は『俺たち、もう老後だろ…』って言うけど」

 現役引退翌年の81年に「背番号なき現役」を出版して以降、40冊以上の本を書いてきた。40万部近く売れた「野村ノート」を筆頭に、出版不況の中で「出せば5~10万部」の安定感を誇る。

 「本なんて私が書いちゃいけないと思いながら、出版社が押しの一手で来るから『じゃ、分かった~』って負けちゃう」

 読書家としても知られる野村は、オフのハワイ旅行でも一日中、部屋に閉じこもって本を読み、原稿を書いている。

 「ハワイに行ったときがいちばん集中できるんだよ。テレビ大好き人間なのに、英語ばっかで分からんし」

 沙知代夫人「この人、まったく(部屋を)出ない。夜になってアラモアナショッピングセンターに行って、散々買い物して食事して帰ってくるだけ。あとはずーっと勉強ですよ。で、帰りの飛行機がビーチの上を通るときに『おー、海もきれいだなあ』『ダイヤモンドヘッドもあったなあ』って」

 「そう。旅行に行ったんだかなんだか分かんない」

 オフに乱読するのは、読書ができないシーズン中の反動でもある。

 「不器用だから、シーズン中は読む気にならない。ページを広げていても頭に全然、入ってこない。『福盛のバカ野郎、あんなところでホームラン打たれやがって』とか試合のこと考えちゃう」

 今年の流行語大賞にもなった「ボヤキ」が実証するように、野村の言葉は普通の野球人とは違う。ボキャブラリーを形成するのは、やはり本である。

 「どっかで読んでると、自分でもビックリするような言葉がパッと出てくるんだよ。右脳というか左脳というか。不思議だねえ、人間ってのは。今の選手の言葉? 知性を感じませんね」

 パ・リーグで現役を過ごした野村にとって、言葉は目立つための武器でもあった。

 「通算600号の記者会見で話す言葉は、1か月前から考えた。『700号への通過点』なんて、王ならともかく、俺が言っても採り上げてくれない。そこで、なぜか月見草がピーンと浮かんだ。田舎の海岸線にね、日が暮れてるのに奇麗な花が一面に咲くんだ。子供心に面白い花だと思ってね。で、ねたみ、ひがみを込めて俺は月見草だと。で、女房に『月見草の正反対の華やかな花(ONを指す)ってなんだ?』って聞いたら『そりゃヒマワリでしょ』と。最近は、俺がちょっとヒマワリになりかけてるけど…。時代がおかしいんじゃないか?」

◆運命の書T・ウィリアムスの「打撃論」

 貧しい母子家庭に育った野村に、読書の習慣はなかった。初めて本格的に本を読んだのはプロ6年目のオフ。24歳の運命を変えたのは「最後の4割打者」テッド・ウィリアムスの著作「打撃論(原題ザ・サイエンス・オブ・ヒッティング)」だった。

 「大阪のお医者さんから送られてきたファンレターの中に、ガリ版で刷った『打撃論』が入ってた。当時、まだ日本では本になってなかったから、英文を自分で翻訳してくれたんでしょうね。面識も何にもない人だったんだけど、なんかね、俺の試合後の談話を聞いて『これは』と思って、送ってくれたみたい。見てる人は見てるんですね。だから(選手には)『たかが談話でも、プロらしい談話をしゃべれ』と言うようになったのよ」

 当時「野村~、カーブのオバケが出るぞ~」とヤジられるほど変化球に悩み、打率2割5~6分前後から抜け出せずにいた野村は、ある一節に目を止める。

 「サラッとだけ書いてあったんだけど『打席に立って相手投手が振り返れば、私には何を投げてくるかが8割以上分かる。直球と変化球のときではフォームのどこかに変化が出ているはずだ』ってね。すごいな、と。それからは、ブルペンで球を受けていても、ずっと投手のフォームを見ていた」

 16ミリカメラも駆使してパ・リーグ投手のフォームを解析した野村は、翌年から8年間で7度、2割9分以上(3割以上は4度)を打つようになる。癖を研究することによって球種を割り出し、ヤマを張るスタイルを確立した。

 「理想は真っすぐを待って変化球に対応することだけど、みんな運動神経も反射神経も違う。だから俺は生きていく道を、よう考えた。恥も外聞もない。俺はヤマを張って生きてきた」

 半世紀前、1959年の革命は今季のベンチまで生き続けた。

 「今でも習慣付けている。(ベンチからマウンドを見て)『真っすぐ』『フォーク』とか言うと、みんな当たるよ。すると、嶋あたりが『監督、どこで分かるんですか』ってね。で、俺は『スライダーなら、ここで合わせてみ』と。あのヘボバッターは、俺のおかげでだいぶ打ってるんだ」

 過去、野村の観察眼を最も必死になって盗もうとしたのは、ほかでもない古田だった。

 「あいつはすごかった。俺が何となく『スライダー』とか言って合ってると、(負けじと)癖を探すのが好きでなあ。で、俺が『100%じゃなくて8割ぐらいだから、自信持って勧められないぞ』とか言うと『8割、御の字です!』って、あの野郎…。配球術も教えたけど、あいつは打席で生かしやがったんだ」

 打率2割5分だった新人は翌年、3割4分を打って首位打者に輝く。また古田は、珍しく本を読む野球選手でもあった。

 「あいつは移動の新幹線でも本読んでたな。何を読んでたのかは知らないけども。みんな裸(ヌード写真満載)の週刊誌とかロクなもんしか読んでないのに」

 あの日出会った「打撃論」は、巡り巡って「ID野球」の礎になっていく。戦後初の3冠王、1500勝監督への道は、一冊の書物から始まったのだ。

 「本を読んで何を感じるか、なんだよね。すべては感性から始まると思うんだよ。ヒントは自分で探さなきゃいけない」

◆評論家・草柳大蔵氏助言で「生涯一捕手」

 現役引退後、評論家活動に入った野村は読書に傾倒していく。師と仰ぐ評論家・草柳大蔵氏(1924~2002年)の勧めだった。

 「原稿書いて、講演やってると、日本語を知らないのがホトホト嫌になってね。こりゃ本を読まないといかんなと。で、草柳さんのとこに行ってね。『まず、これ読みなさい』って言われたのが安岡正篤さんの『活学』だった。人間学でね。ずっと借りて読んでた。返さないかん、返さないかんと思ってたら死んじゃった。だから、もらった」

 何を書いて、何を話せばいいか分からない野村に「あなたには素晴らしい体験があるじゃないですか。それを伝えてあげなさい」と指南したのも草柳氏だった。

 「するとね、日本人気質に合うんだろうね。生きざまが。母子家庭で育って、プロもテスト生でスタートしてっていう浪花節的なところがウケるんだろうね。日本人って苦労話が好きじゃない?」

 師匠には、後の座右の銘も授けられた。

 「南海をクビになったとき、ロッテからオファーをもらって(現役を続行するか)悩んだんですよ。で、先生に『生涯一書生って言葉があります』って言われて。で『ああ、良い言葉だな。じゃ、俺は生涯一捕手だな』と。非常に勇気づけられたな、あの言葉には。解任されてドーンと落とされて、もう野球界に復帰することはないと沈んでる最悪な精神状態のときだったから。で、女房に『どうする?』って言ったら『なんとかなるわよ。東京行こう』って。本当は、自分でもなんとかなると思っていたんだ」

 野村は今も、師匠から贈られた「3人の友を持て」という言葉を胸に、人生を歩んでいる。

 「原理原則を教えてくれる人、師と仰ぐ人、直言してくれる人…。直言してくれる人は、なかなかいない。誰もいない…。ふふ、たったひとりだけいる。女房や」

 取材者が用意した草柳大蔵著「礼儀覚え書」を「ちょっといいですか」と手に取った野村は、パラパラとページをめくり、小さな声で言った。

 「先生の話を聞いていると、自分の無知無学を自覚させられた。亡くなって非常に不便してる。もうちょっと生きていてほしかった…」

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