【あの時・日本レコード大賞<7>】五木ひろし、レコ大は2勝2敗…3度取れた?

「長良川艶歌」を歌う五木ひろし
「長良川艶歌」を歌う五木ひろし
日本歌謡界をけん引してきた五木
日本歌謡界をけん引してきた五木

◆五木ひろし(73・84年大賞)後編

 “大みそかはレコ大と紅白”がお茶の間の定番だった。1959年にスタートした日本歌謡界最大の音楽イベント「日本レコード大賞」が今年、令和に入って第1回目となる。12組の歌手や作家が当時を振り返る。(この連載は2018年12月にスポーツ報知掲載の復刻)
 ※「第61回日本レコード大賞」は12月30日午後5時半からTBS系で放送される。

 1980年は五木の「ふたりの夜明け」と八代亜紀の「雨の慕情」の横綱対決。「五・八」戦争として話題となったが、五木は大賞取りのために前年から作戦を立てていたという。

 「79年に『おまえとふたり』で金賞を取りましたが、それまでの3年間は売れているのに落とされたんです。ラスベガスで公演したことに否定的な声が上がってね、わざと落とされたとしか思えない厳しい評価でした。悔しくて僕は結局独立して、本当の意味でレコ大に真剣に取り組みました。その一発目に『おまえと―』と出会いましたが、独立して間もないので大賞を狙うまでの態勢が整っていなかった。翌年、足並みもそろった時に八代亜紀ちゃんが出てきて五・八戦争ですよ」

 ―80年は「ふたりの夜明け」より「倖せさがして」の方がセールスが上だった。

 「“倖せ”なら大賞を取れていたと思います。まだウチだけでは力不足ですから、どうやって応援してくれる人たちを巻き込んでいくのか、力を貸してもらえるのかを考えた末、“夜明け”に切り替えました。よかれと思った作戦が裏目に出ました。結果的にはそこまでの作品ではなかった。それと亜紀ちゃんは(前年の)『舟唄』から事務所も勝負を懸けていました」

 八代が大賞を受賞した時、五木に駆け寄ってお礼を言ったが…。

 「僕も亜紀ちゃんも銀座でクラブ歌手をしていた頃から知り合いです。ここまでやってこれたのも、自分の後を追ってきたという思いもあり『ありがとう』を伝えたかったんだろうけど、僕とすれば悔しい。それが『もういいからあっち行けって』となった(笑い)。『五・八』は誰がつけたか分からないけど見事なネーミングでした。戦争した気持ちは全くないですけど、見事に負けた悔しさがずっと響いて、いつかその悔しさを晴らそうと思って、4年後に『長良川艶歌』でリベンジを果たすんですよ」

 ―大賞の自信はあった。

 「“長良川”は枚数的にも二重丸で歌謡大賞も初めて取りましたから手応えはありました。でも呼ばれるまで安心できないんですよ、本当に。これは政治家の選挙みたいで蓋を開けるまで分からない。名前を呼ばれた時にはうれしさとホッとした気持ちもありました。一番悔しかったのは昭和62年に『追憶』でマッチの『愚か者』に負けた時ですね。『ザ・ベストテン』で年間ベスト1位でしたからね。当時のジャニーズは力もすごかった。レコ大取るには楽曲だけでなく総合力が必要なんです。今思えば僕は2度勝ったけど、大きく2度負けている。2勝2敗です。振り返っても僕は3度取れていたなと思います。『賞レースは参加しない』と宣言しましたが、いつか最年長で大賞を取れる日が来るんじゃないかと自分に期待しているんです」(構成 特別編集委員・国分敦)

◆昭和55年5月5日マスコミが大騒ぎ

 過熱した「五・八」戦争の背景に五木の名前? 「80年は昭和55年で五木の5。忘れもしない5月5日ですよ。大阪フェスティバルホールで公演、まだ独身だったからそこで婚約発表の話が出回ってマスコミがどっと押し寄せました。55年5月5日ときれいな5並び。この名前になってから全てうまく回っていて僕にとっては5はラッキーナンバー。だからこそ、この年は勝ちたかった」

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