【箱根への道】早大時代2度出場の小説家・黒木亮さん特別寄稿「自分の陸上競技人生は今が本番。今度こそ箱根駅伝の雪辱を」

1980年箱根駅伝8区を力走する早大・金山雅之(黒木さん)。監督車の助手席で中村清監督、後列中央で瀬古利彦が見守る
1980年箱根駅伝8区を力走する早大・金山雅之(黒木さん)。監督車の助手席で中村清監督、後列中央で瀬古利彦が見守る
経済小説を執筆するためにレバノン・ベイルートに取材に訪れた黒木さん(本人提供)
経済小説を執筆するためにレバノン・ベイルートに取材に訪れた黒木さん(本人提供)
黒木亮著「冬の喝采」
黒木亮著「冬の喝采」
1980年1月4日付本紙
1980年1月4日付本紙

 小説家として活躍する黒木亮さん(62)=本名・金山雅之さん=は、早大時代に箱根駅伝に2度出場した経験を持つ。伝説的指導者の中村清監督(故人)から熱狂的な指導を受け、大スターの瀬古利彦さん(63)とタスキをつないだ貴重な体験など、自身の陸上人生を描いた小説「冬の喝采」は駅伝ファンの間では名作として知られる。競技人生最後のレースとなった早大4年時の箱根駅伝から40年。スポーツ報知に特別寄稿し「箱根駅伝と作家業」の熱い思いを記した。

 英国を拠点に経済小説を書き始めて二十年になる。ロンドン郊外にある自宅で、毎朝八時半頃から執筆を始め、夕方六時頃まで書く。土日も休まない。年に三ヶ月くらいは日本や世界各地に取材に出かける。今年はペルー、アルゼンチン、レバノン、ミャンマー、フランスなどを訪れた。

 作品は同時並行で二~三作品を執筆している。取材を始めて本になるまでだいたい三年から四年かかる。拍手も喝采もなく走り続け、新作を出せるのは年に平均一作だ。そういえば大学時代もこんな生活だったなあと、苦笑を誘われる。

 私は高校二年から大学一年までの三年間、左足首の骨端腺を傷め、競技生活は空白だった。早稲田大学には一般入試で法学部に入り、スポーツ整形外科に強い第三北品川病院で六週間ギプスをはめる治療を受け、リハビリを経て、ようやくランナーとして復活した。

 競走部に入部したのは大学二年になる直前である。同学年に瀬古利彦氏がいた。私は箱根駅伝を走りたいなどとはまったく思っておらず、地元の北海道選手権か毎年四月に札幌で開催されていたタイムス・ロードレースで上位入賞することしか頭になかった。ところが故・中村清監督が「瀬古に比べればお前らは石ころだ。石ころは石ころらしく、年に一回箱根駅伝で花を咲かせればいいんだ」と、選手全員を箱根駅伝要員にしてしまった。長距離走は努力でいくらでも強くなれるという考えに凝り固まっていた老人で、四〇〇メートルや走り幅跳びの選手にまで転向を命じていた。

 私も何のために陸上競技をやるのか分からなくなったが、言うことを聞くしかなく、みんなと一緒に箱根駅伝の距離である二〇キロメートル強を速く走れるようになるための練習を続けた。これは、八〇〇メートルの選手たちには悲劇で、大半がつぶれた。しかし、私のようにスピードがなく、距離が長いほうがいいタイプには結構合っていた。

 箱根駅伝は二回走らせてもらった。高校駅伝の経験もない私は、本番にどうやって調子のピークをもって行くかも知らず、秋以降に練習の一環で出場するレースでは常に頑張って、常にチームで四、五番の成績を収めた。しかし、本番直前になると調子が落ち、箱根駅伝で力を出せないというパターンだった。

 ただ、爆発力はないけれども、休むことなく、常に一定の力で頑張り続けられるという自分の性格は、作家になってからは役立っているように思う。スポーツと違って、取材や執筆活動で怪我をして、すべてが水泡に帰するということもない。競技生活を通じて怪我に苦しんだ自分にとって、これは素晴らしいことだ。

 中村清監督の指導は昨今のパワハラどころではなく、「神になりたかった陸上狂」だった。しかし振り返って考えると、死ぬほど努力すれば、人の能力に限界はないのだと伝えようとしていたように思う。私自身、大学二年の秋まで何度走っても二〇キロメートルは一時間八分台で、自分はせいぜい一時間六、七分の選手だと思っていた。ところが監督の罵声に耐えながら走り続けるうちに、大学三年で一時間三分台、四年のときは一時間一分五十八秒八の北海道新記録を出すところまで伸びた。この体験は貴重な財産になった。

 スポーツの栄光は五輪の金メダルでもない限り、その時だけのものだ。トロフィーもメダルも時が経てばただのガラクタである。真の価値は、そこで得たものをその後の人生にどう生かすかではないだろうか。世界で初めて一マイル四分の壁を破ったロジャー・バニスターが今も英国で広く尊敬されているのは、偉業もさることながら、その年にきっぱりと引退して医学の道に専念し、著名な神経学者になったからのように思える。私はずっと下のレベルだが、自分の陸上競技人生は今が本番で、今度こそ箱根駅伝の雪辱を遂げたいと思っている。

 ◆黒木亮と「冬の喝采」

 本名・金山雅之さんは1957年に北海道秩父別(ちっぷべつ)町で生まれた。中学生から陸上を始め、深川西高1年時に全国高校総体5000メートルに出場。しかし、その後は故障に苦しむ。76年に早大法学部に入学後、執念で故障を治し、練習再開。徐々に力を取り戻すと、熟慮の末、2年に進級する直前に競走部の門を叩いた。

 中村清監督の熱狂的な指導に耐え、着実に力を蓄えた黒木さんは3年時の79年箱根駅伝3区に出場。しかも、2区で区間新記録をマークした瀬古さんから首位でタスキを受け、区間13位ながら首位を死守した。4年時の80年箱根駅伝は8区で区間6位と力走。同学年の瀬古さんは箱根駅伝1か月前の福岡国際マラソンで優勝し、80年モスクワ五輪代表(のちにボイコット)という現在では考えられないほどの活躍をした。黒木さんは、希代のカリスマ指導者とスター選手と共に濃密な時間を過ごした。

 80年に卒業し、都市銀行に入行。その後、証券会社、商社など金融ビジネスの第一線で活躍する一方で2000年に作家デビュー。03年から作家専業となり、黒木亮のペンネームで多くの経済小説を執筆している。

 自伝的小説の「冬の喝采」は箱根駅伝ファンにとっては至極の一冊で、学生ランナーの間でも愛読者は多い。

 練習の苦しみ、それ以上につらい故障で走れない苦しみ、レース前の緊張、レース中のアクシデント…。多くの苦悩がある中で、ごくまれに味わうことができる歓喜。長距離走という競技の本質がリアルに描かれている。さらに父親とのドラマは深い感動を呼ぶ。

 ◆1979年大会 早大は2区でマラソン界の新星、瀬古利彦(3年)が区間新記録の快走を見せ、25年ぶりに首位浮上。3区の金山雅之(3年)、4区の井上雅喜(1年)も首位を守り、往路2位。復路は5位で総合4位。順大は5区で上田誠仁(2年)の区間賞の激走で首位を奪い、13年ぶり2度目の優勝を飾った。

 ◆1980年大会 早大は1区で石川海次(4年)が首位発進。2区の瀬古(4年)が再び区間新記録で独走。一時は4位に後退したが、終盤に盛り返し、25年ぶりに3位に入った。5区で首位に立った日体大が復路も9、10区で双子の坂本亘、充(ともに4年)の連続区間賞などで圧勝。2年ぶり8度目の優勝を遂げた。

1980年箱根駅伝8区を力走する早大・金山雅之(黒木さん)。監督車の助手席で中村清監督、後列中央で瀬古利彦が見守る
経済小説を執筆するためにレバノン・ベイルートに取材に訪れた黒木さん(本人提供)
黒木亮著「冬の喝采」
1980年1月4日付本紙
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