不滅の400勝・金田正一さん逝く…86歳、弱小国鉄で14年連続20勝

巨人時代の金田正一さん(1966年9月撮影)
巨人時代の金田正一さん(1966年9月撮影)
19年6月7日、ロッテ戦の試合前に原監督(左)と写真撮影に応じる金田正一さん
19年6月7日、ロッテ戦の試合前に原監督(左)と写真撮影に応じる金田正一さん

 プロ野球で歴代最多の400勝を達成し、ロッテで監督も務めた金田正一(かねだ・まさいち)さんが6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため都内の病院で死去した。86歳だった。左腕で長身から投げ下ろす速球と大きなカーブを武器に国鉄(現ヤクルト)、巨人でプレー。野球評論家、タレントとしても活躍し、多くの球界関係者から親しまれた。通夜・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は長男・賢一(けんいち)氏。後日「お別れの会」を行う予定。

 金田さんは8月に体調を崩し、最後は会話も難しかった。それでも6日朝に亡くなるまで、手に残る「力強さ」は健在だった。この日、長男で俳優の賢一さん(58)が本紙の取材に応じた。

 「亡くなった本人が一番信じられないと思う。いつも『健康で』と言っていたから」(賢一さん)。7月に心筋梗塞を患ったが、86歳の誕生日だった8月1日には懇意のレストランでステーキ、すしなどを口にし、同席した親族も「良かった」と安心していた。

 約1週間後に事態は急変する。正一さんは腹痛を訴え入院。その後はICU(集中治療室)に入り、1か月以上「飲まず食わず」の状態が続いた。「心筋梗塞もあったし、いろんなことが重なったのかな」(同)。会話ができたり、大好きな野球や大相撲の中継を目にする日もあったという。

 ボールを握る運動にも取り組んでいた。肌つやは良く家族の手を握る際には「強さ」があった。「土台がしっかりしている。(最後まで)力強く生きていた」という。「『何騒いどんじゃ』と今にも起きてきそう。(死は)人の営みとしては当たり前だが、まさか死ぬとは思ってなかった。人生100年の時代で、あと14年は生きると思っていた」と突然の別れにショックを隠しきれなかった。

 金田さんは、享栄商(現享栄高)3年時、剛速球が買われて中退し国鉄に入団。2年目の1951年からは飛ぶ鳥を落とす勢いで、快速球と大きなカーブを武器にエースとして君臨した。この年、初めて金田を球宴で見た南海(現ソフトバンク)の山本(鶴岡)一人監督が「あのぼんぼん(金田)にやられたわ。球は速いしコントロールはないし(笑い)。今後の心掛け次第でいいピッチャーになる」と驚嘆したほどだ。

 黄金ルーキーと騒がれた長嶋茂雄が巨人に入団した58年。2人は本紙の企画で開幕前日に対談した。長嶋さんが「(後楽園のバックスクリーンに)打ちますよ」と発言したのを受け、開幕戦で4打席4三振に斬ってとったのは有名だ。自己最多31勝、64回1/3連続無失点を記録したのもこの年。「黄金の左腕」「球界の天皇」の異名を取った。

 64年末には「B級10年選手」(現在のFAに似た制度)の権利を使って巨人移籍。日本中を騒がせ、脅迫状が舞い込んだこともあった。巨人ではV9に貢献。厳しいトレーニングや節制を実践して巨人ナインの意識改革を植え付け「長嶋茂雄を蘇(よみがえ)らせたのは俺だ」と豪語したこともあった。69年に通算400勝で現役引退。背番号「34」は永久欠番となった。

 その後、本紙評論家などを務め、73年にロッテ監督に就任。翌年、当時最強を誇っていた阪急(現オリックス)をプレーオフで下し、日本シリーズでも中日を破り日本一となった。退任後の78年に名球会を設立。90、91年に2度目のロッテ監督を務めた後は、球界のご意見番としてメディアで活躍した。

 80歳を超えた近年も、元気な姿を見せていた。18年1月、巨人・原辰徳監督(61)の野球殿堂入り発表会でゲストスピーチ。同年2月の「ジャイアンツVSホークスOB戦」(宮崎)にも“参戦”した。今年6月7日には東京Dを訪れ、試合前の原監督らと笑顔で交流。「カネやん」の愛称でも親しまれた昭和の大投手だった。

 ◆急性胆管炎 肝臓から分泌された胆汁が十二指腸へ流れる際に通る胆管が、細菌感染と結石、腫瘍などによる胆汁の停滞で炎症を起こす病気。細菌が血流に乗って敗血症(全身に細菌がまわって多臓器不全に陥る症状)を発症することがある。寒気を伴う発熱と黄だん、右上腹部痛が代表的な自覚症状だが、高齢者の場合は気付かずに重症化することも。

巨人時代の金田正一さん(1966年9月撮影)
19年6月7日、ロッテ戦の試合前に原監督(左)と写真撮影に応じる金田正一さん
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