欽ちゃん、たけしら見守り続けた浅草芸人の父・松倉久幸さん「笑いは生きる糧」

「さぁ、笑いに来てください!」。浅草演芸ホールで声をかける松倉久幸会長
「さぁ、笑いに来てください!」。浅草演芸ホールで声をかける松倉久幸会長
著書を手に笑顔を見せる松倉会長
著書を手に笑顔を見せる松倉会長
松倉久幸著「起きたことは笑うしかない!」
松倉久幸著「起きたことは笑うしかない!」
ビートたけしが仕事のかたわら修業に励んだエレベーター
ビートたけしが仕事のかたわら修業に励んだエレベーター

 寄席・浅草演芸ホール、漫才、コント・浅草東洋館を経営する東洋興業の松倉久幸会長(83)が「起きたことは笑うしかない!」(朝日新書、825円)を出版した。15歳で長野から上京。ロック座、フランス座をたち上げた父・宇七さんとともに、現在まで浅草で、渥美清さん、萩本欽一、ビートたけしら数多くの“浅草芸人”がスターへの階段を駆け上がっていくさまを見守り続けた。松倉会長が語る、笑いとは―。(高柳 義人)

 「アーッ、ハッ、ハッ―」。よく通る大きな笑い声で迎えてくれた浅草演芸ホール・松倉久幸さん。御年83歳には思えない張りのある若い笑い声だ。「いつの時代でも笑いは人を幸せにするんだ」。確固たる信念を持っている。

 浅草の“笑いの歴史”の生き証人でもある。父親・宇七さんが1947年8月に浅草ロック座をオープン。演劇好きの宇七さんはストリップの合間に軽演劇を組み込んだ。15歳で長野から上京した松倉会長は父親の仕事を手伝う。その後、浅草フランス座を開場、渥美清さんら多くの芸人がテレビ、映画へと進出した。

 「何となく一番印象に残っているのが深見千三郎ですね。すばらしい芸人でした。絶対に譲らないというか、自分の信念を曲げない男でしたね。何せ、お客さんともけんかしちゃう。『面白くないよ』と言われたら『入場料返すから帰っていいよ』と言ったり」。当時、浅草で“師匠”といえば深見さんを指した。東八郎さんら多くの弟子を育て弟子がテレビに進出して売れっ子になるが、深見さんは最後まで浅草に残った。劇場で人気を博し、オファーが相次いだがすべて断ったという。「オレは浅草で死ぬんだと…。そういうところがあったんだと思います」

 その深見さんの最後の弟子・ビートたけしもフランス座で育った。エレベーターボーイだった。「お客さんだけでなく芸人も乗るので、毎朝、師匠にエレベーターで会うわけだ」。深見さんは最初、たけしにタップを教えた。「屋上へ来いと言って、タップを教えた。最初に教えた芸がタップだった。たけしはエレベーターの中でも踏んでいたと思う」。一生懸命な姿に深見さんはチャンスを与えた。病気で休んだ役者の代わりに、たけしを抜てきした。「セリフを教えたわけではないのに、見事に代役をこなした。師匠は『門前の小僧習わぬ経を読むだな。この子は素質あるな』と言ってました」。雑用しながら自然とセリフを覚え、チャンスをつかんだ瞬間をしっかりと見ていた。

 浅草は芸人を育てる場所だと松倉会長は言う。「金がなくても出世払いでいいよって、飯を食わせてくれたり…」。フランス座も積極的に受け入れた。「ウチに来る芸人は家出同然だけど、楽屋で寝泊まりして舞台衣装もある。食べ物は踊り子さんの残したモノがある」。たけしが寝泊まりした部屋は、現在の東洋館の楽屋の上に残されている。

 萩本欽一も浅草から売れていった。「ウチの会社のアパートに住んでいて、コメディアンになりたいと親に連れてこられた。真面目な青年でした」。松倉会長はキンと呼んだ。「キンは忠実だった。踊り子の世話をしたり、ウチの先輩のコメディアンが教えたことをそのままやっていた」。坂上二郎さんの存在も大きいという。「坂上二郎がうまかった。キャバレーの営業にキンを連れて行き、リードしていた。たけしと深見千三郎がコンビを組んだようだった」と話した。

 松倉会長は今でも劇場に顔を出すと、真っ先に笑う。大きな笑い声に芸人が「今日も会長がいる」と気がつくという。原風景がある。戦後すぐのロック座のオープンの時だ。「お客さんが笑いを求めていた。戦時中には笑いなんてないからね。女性もモンペをはいていた時代に、みんな元気になって笑顔になって帰っていく姿を思い出すね」。笑いは元気にする。「笑いは全世界、どこに行っても一緒。笑っている間は争いがない、けんかをすることもないでしょ。世界が笑いに包まれていれば戦争がない」。自身は5年前に胃がんを患ったが、今でも元気だ。「笑いは生きる糧だから。嫌なことも笑いで吹き飛ばしますよ。まだ83歳、100歳になったって笑ってますよ」。アーッ、ハッ、ハッ―。松倉会長の笑い声が今日も演芸ホールに響いている。

 ◆元日大三野球部

 松倉会長は日大三高野球部OB。「フランス座は軟式野球チームを持っていたんだよ」と卒業後も白球を追っており、元プロ野球の投手で162勝を挙げ、日本ハム、ヤクルトで監督を務めた土橋正幸さんもチームメートだった。「土橋は魚屋のせがれで体が丈夫だった。土橋の球は誰も打てなかった」。当時、後楽園で軟式野球の東京都大会が行われ優勝した経験も。一方でフランス座の座付き作家として井上ひさしさんが在籍するなど幅広い交友範囲を持つ。

 ◆松倉 久幸(まつくら・ひさゆき)長野県生まれ。日大三高から中大に進む。浅草ロック座、浅草フランス座を経営する父・宇七さんを手伝う。64年に浅草演芸ホールを開場し、寄席経営に乗り出す。68年に東洋興業の社長に就任。2018年、「江戸まち たいとう芸術祭」実行委員会顧問に就任。著書に「浅草で、渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし…が歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。」(ゴマブックス)がある。

「さぁ、笑いに来てください!」。浅草演芸ホールで声をかける松倉久幸会長
著書を手に笑顔を見せる松倉会長
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