松島幸太朗の母・多恵子さん「息子のプレー一つ一つが贈り物」

2歳の時に南アフリカ・ケープタウンで父・ロドリックさんとお出かけ(多恵子さん提供)
2歳の時に南アフリカ・ケープタウンで父・ロドリックさんとお出かけ(多恵子さん提供)

◆ラグビーW杯 ▽1次リーグA組 日本19―12アイルランド(28日・静岡エコパスタジアム)

 アイルランドに歴史的勝利を挙げた日本代表で、ウィング松島が輝きを放った。15年W杯の南アフリカ戦に続く偉業だ。日本のトライゲッターを支えてきた母・多恵子さんがスポーツ報知の取材に応じ、幼少期からの道のりを語った。

 幸太朗の雄姿を見届け、母は胸が熱くなった。

 「決して簡単に(代表に)選出されたわけではなく、よくここまで来たと思います。多くの偶然、必然な支援、幸太朗のプレーを楽しみにしてくれているファンの人たちの声が彼をここまで導いてくれたと思います」

 生まれ故郷は南アフリカ・プレトリア。ジンバブエ人の父・ロドリックさんと母・多恵子さんの間に生まれた3150グラムの男の子だった。名前は「コウタロウ」。しっくりくるからと母が「朗」の一字を入れた。

 日本に帰国したのは6歳、小学校1年生だった。ジャーナリストの父は南アフリカへ赴くことも多かったが、日本でほぼ親子3人暮らし。父が南ア拠点の仕事が多くなった13歳の頃に留学した。

 「1年間だけでしたけど、父と子の2人だけの生活になりました」

 グラハムズタウンの学校に入学し寮に入った。この時、ラグビーと出会った。父の影響で当時はサッカーをしていたが、すぐに好きになった。

 「寮のみんなとラグビーの試合をテレビで見て、一体になって応援するのが楽しかったようです。サッカークラブがなかったから、学校の担任から向いているとラグビーを勧められました。小さい頃から鬼ごっこやかけっこが好きだったのですぐにのめり込みました」

 遠く離れた日本にいる母を恋しくなることもあった。

 「帰りたい、嫌だ、寂しいとか直接言うことはありませんでしたけど、モヤモヤっとそんな話をしていたかも知れません。南アフリカという異なった文化の空気を吸ってほしかったんです。思いっ切り広い大地でスポーツをしてほしかった、という気持ちでした。本人は戸惑ったと思うし親の勝手でしたけど南アフリカで生活することは絶対プラスになると考えていました」

 通話環境が発達していなかった時代に、母はたまの電話で息子を励ました。

 「私の方が『幸太朗の夢ばっかり見ちゃうよ』と言ったように記憶しています。身長が私より大きくなった幸太朗とやりづらそうに肩を組んで歌った夢などを見たことを覚えています」

 強豪の桐蔭学園高に進学すると、どんどんラグビーにのめり込んだ。南アから父の訃報が届いたのは、高校2年の冬だった。

 「想像もしていないことが突然起きたことは受け入れがたいことだったと思います。父親の訃報を伝えた後は、部屋に数日こもりっきりでした」

 高校卒業後、故郷に単身渡り、強豪シャークスの下部組織で武者修行。同国のU―20代表候補にも入った。幸太朗は「振り返れば、この2年で『俺はラグビーで生きていくんだ』と人生の決断をしたと思う。母からは『行きなさい。自分がしっかり成長できるところで頑張ってきて』と励まされたかな。今となっては成長できた場所だし、その決断は良かったです」と話す。

 幸太朗から「もらった一番の贈り物」がある。初選出された15年W杯。「南ア戦の先発を知り、寝付けないほどの喜びでした。一番の思い出というより幸太朗がくれた一番の贈り物は現地で見た(第3戦の)サモア戦勝利の後、幸太朗が観客席に来て私の肩を抱き寄せて、写真を撮ってくれたことです」

 もちろんここで終わりではない。「結果を出さなければならないのでしょうけど、それは選手たちの問題。私はただ幸太朗がこの瞬間を精いっぱい生きてくれればいい。スポーツ選手のプレーには人格が表れるというが、まさに、自由な生きざまがにじみ出ている幸太朗のプレーを楽しみにしています」

 母にとっては一つ一つ、すべてが贈り物だ。

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