【日本ハム】田中賢介、ありがとう…涙の日本1499安打

引退試合となる田中賢(右)の背番号3のユニホームを着用し試合に臨む日本ハムナイン(カメラ・関口 俊明)
引退試合となる田中賢(右)の背番号3のユニホームを着用し試合に臨む日本ハムナイン(カメラ・関口 俊明)

◆日本ハム1―5オリックス(27日・札幌ドーム)

 日本ハムの田中賢介内野手(38)がオリックス戦(札幌D)で日米20年の現役生活を締めくくった。「2番・指名打者」で先発。涙を浮かべ立った8回の最終打席では、この日2本目の安打となる、日本通算1499本目の右越え適時打を放ち、9回には本職の二塁の守備にもついた。試合前には涙ながらに引退会見。5度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献した背番号3は、“賢介カラー”のピンク色に染まった札幌Dで「家族」に見送られ、プロ野球人生の幕を下ろした。試合は1―5で敗れ、今季最終戦を白星で飾ることができなかった。

 最高の「家族」の見送りに、田中賢が泣いた。球団職員、スタッフ、ファン、チームメート。2人の息子からは花束を渡され「その全ての人たちが僕にとっては『家族』です。家族とともに過ごした20年間は最高に幸せでした」。イメージカラーのピンクに染まった札幌Dの真ん中で、感謝を伝えた。

 プロ20年間が走馬灯のようによみがえった。8回2死一、二塁。日米通算6177打席目は泣きながら、打席に入った。「涙が止まらなくて、ボールの打ち方も忘れて、無我夢中だった」。振り抜いた打球は右翼フェンス直撃の適時打。通算1500安打までは1本及ばず。「いつもちょっと足りない野球人生だったな」。自分らしいと笑った。

 昨年12月、19年シーズン限りでの引退を表明。プロ野球界では異例の早期発表だった。「早く引退宣言した方が、(周囲に)気を使わせなくて済む」。退路を断ち、ラストイヤーに向かった。20年間の現役生活で貫き通したのは「自分の道は自分で決める」こと。男の流儀は父・義文さんから、受け継いだものだ。東福岡高への進学から、自らの去り際まで。最後まで全て自分で決めた。

 最大の決断は、12年オフの海外FA権行使。マイナー契約から、メジャーの夢を追った。「結婚してすぐにアメリカに連れて行ってしまい、僕の何倍もつらい日々だったと思う」。今でも千芳夫人には頭が上がらない。13年7月にメジャー初安打。だがレンジャースに移った14年にはメジャー昇格すらできなかった。苦しんだ2年間も「あえて苦しいところに挑戦して行くことが自分の人生にプラス」。自分で決めたことだから後悔はない。

 世界を知り戻った北海道は、今では「ふるさと」になった。「アメリカでうまくいかず帰ってきた僕をファイターズという『家族』は温かく迎えてくれました」。鳴りやまない「賢介コール」。愛する「家族」の声援は、背番号3の胸に深く刻まれた。

 ◆賢介という男

 ついに迎えたラストゲーム。見送る仲間たちも、様々な思いを持ってグラウンドに立った。

 温厚なまなざしの裏に持つ鋭い野球眼を明かしたのは、巨人移籍後も宮古島での自主トレに参加してきた吉川。若手時代、志願してついていった自主トレ。「お前が自己満足で投げたい球より、嫌で投げても打者が嫌がる球の方がいい」と厳しい言葉をもらった。投手、野手の垣根を越えベテランが発した言葉の数々は、今でもはっきり覚えているという。

 元々多弁な方ではなく、目でものを言う。宮西は「俺が1、2年目くらいの時は、(二塁から)まなざしだけで傷ができるくらい厳しい目線で見られて」と振り返った。日本ハム復帰後は左腕の成長した姿に、大ピンチで二塁から笑いながらふざけたサインを送ってくるようになった。「自分が成長できているんだなって、賢介さんの雰囲気で感じてた」。多くは語らずとも、日本ハムの精神的支柱であり続けた。

 札幌の室内練習場には、時折、愛息を連れてきた。一緒に野球に興じる目は、いつも優しかった。戦い続けた20年。「北海道に住んでいながら、あまり地方には行けてなかったので行ったことのない場所に(家族)みんなで旅行に行けたらいいな」と話した背番号3。しばらくは野球を忘れ、優しい父に戻ってもいいだろう。(秦 雄太郎)

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