甦るマサ斎藤、永遠のGO FOR BROKE<2>天国へ旅立った夜

米国マットでトップヒールとして活躍したマサ斎藤さん(斎藤倫子氏提供)
米国マットでトップヒールとして活躍したマサ斎藤さん(斎藤倫子氏提供)

 日米のマット界でトップレスラーとして活躍したマサ斎藤さん(本名・斎藤昌典。享年75)がパーキンソン病で亡くなって14日に一周忌を迎えた。明大4年時に1964年の東京五輪でレスリング日本代表として出場。卒業後に日本プロレスに入門、その後、東京プロレスへ移籍し、同団体が崩壊後は、単身、米国マットに乗り込みトップヒールとして活躍した。80年代後半から日本マットに定着し、選手としてだけでなく新日本プロレスの渉外部長として日米マット界の懸け橋となりドーム興行で隆盛を極めた90年代の新日本プロレスの黄金時代に大きく貢献した。引退した99年にパーキンソン病を発症し、亡くなるまでモットーの「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」を掲げ、懸命に病と闘った75年の人生。「WEB報知」では、マサさんの妻・斎藤倫子さんを取材。「甦るマサ斎藤、永遠のGO FOR BROKE」と題し、マサさんの秘話を連載します。第2回は「天国へ旅立った夜」。

 2018年7月。マサ斎藤は、翌19年2月15日に大阪での開催が決まった「復帰戦」へ向け埼玉県吉川市の自宅を離れ、越谷市内の病院が併設するリハビリ施設に入所しながら懸命にリハビリに取り組んでいた。

 7月11日、水曜日の夜だった。妻の倫子がいつものように施設を訪れ、別れ際に「じゃぁ、マサさん、またね」と普段と何も変わらない言葉を告げるとマサは手を振った。毎回、繰り返してきた光景だった。ただ、この日だけ違っていたのは、これがマサと倫子の最後の会話となったことだった。そして、2日後の13日の夜が来た。

 「吉川に温泉施設があって、私は毎日、夜に自分の体調を管理するためにそこでトレーニングをしていたんです。いつも午後9時にそこを出るんですけど、出た時にマサさんの体調に異変がないかを確かめる意味で必ず携帯の留守電をチェックするのが習慣でした。ただ、それまでの何年間、一度も留守電にメッセージが入っていたことはなかったんです。ところが、その日は、温泉を出た瞬間に電話が鳴ったんです」

 着信は、施設からだった。胸騒ぎを押さえながら電話に出ると担当者が「マサさんの体調が急変して大変なんです。すぐに施設に来てください」と告げた。

 「急変って言われても何か転倒してケガをしたのかなぐらいしか考えられませんでした。だって、ほんの2日前までは元気な声で“またね”って言ったばかりでしたから。ただ、施設からの口調が“とにかく早く来てください”ってすごく慌てたので嫌な予感はしたんです。それで、車に乗ってナビで施設をセットして向かったんですけど、どういうわけか道に迷ってしまって…普段なら30分で着くところを1時間もかかってようやく病院に到着しました」

 駐車場に止めた時、同時に救急車が入ってきた。

 倫子は「あっ、これマサさんだ」と直感した。短パンにTシャツ、ゴム草履という姿で救急車へ駆け寄ると救急隊の隊員に「斎藤昌典ですか?」と尋ねた。「奥さんですか?救命処置を望まれますか」と聞かれた。「もちろんです。できることはすべてやってください」と懇願すると、そのまま施設の中に救急隊員たちと共に入った。

 「その時には心臓が止まっていたました。一緒に部屋に上がって心臓マッサージをやっても心電図が動かない。AED(自動体外式除細動器)を使っても動きませんでした」

 動かない心臓。信じられない現実に倫子は、涙を流し絶叫した。

 「マサ、マサ!頑張って!ダメよ。何やっているの!早く起きて、早く起きて!ゴー・フォー・ブロック、マサ!ゴー・フォー・ブロック、マサ!お願いだから私を1人ぼっちで置いていかないで!お願いだから早く起きて!お願いだからダメよ、ダメよ、こんなことはありえないでしょ!なんでなんで、とにかく早く起きて!早く起きて!」

 施設の担当者から「落ち着いてください」とベッドから離されたが、「なぜ、どうしてこんな事になぜ」と泣きじゃくった。

 「私は、発狂した感じだったと思います。マサさんが今、ここにいるべきであったら絶対に生き返ると思っていました。最後の方は、泣きじゃくりすぎて涙も出ませんでした」

 この間、病院搬送の手配が取られ、最寄りの総合病院に移された。病院の救急室へ運び込まれると、医師から「外に奥さんは出て下さい」と告げられた。新たな蘇生措置が取られた。倫子は医師から呼ばれ、入室すると「奥さん、心肺停止から1時間半がたっています。脳も破壊しています。死亡確認をして頂きたい」と宣告された。

 「私は、そんなの絶対に嫌ですと言いました。奇跡を信じます。私は、闘病中に彼の奇跡を何回も見てますし、信じてますから“彼は必ず生き返ります。死にません”って言ったんです」

 倫子の懇願に医師はこう伝えた。

「分かりました。奇跡を信じましょう。奥さんに1時間差し上げます」

 その言葉を最後に医師は病室を出た。部屋には、倫子が1人だけになった。そこから倫子は叫び続けた。

 「深夜で静まり返った部屋には、マサへ空気を送り込むスーッ、スーッという音は切なくまだ耳に残っています。そんな中、目覚めの声は絶やしていけないと“ゴー・フォー・ブロック!OK!レッツゴー!1、2、3、マサ!”、明大応援部の“頑張れ、頑張れ斎藤!”と思いつくまま呼び続けました」

 しばらくすると、急変を聞いた佐々木健介、北斗晶夫妻とマネジャー、中嶋勝彦、倫子の妹と親友の6人が病室に駆け付けた。

 「健介さん、北斗さんとか応援団が加わってみんなで“マサさん頑張れ!”“ダメだよ、マサさん”って叫びました」

 病室に入ってから1時間半以上が経過していた。気がつけば日付は7月13日から14日になっていた。再び医師が部屋に入ってきた。

 「心肺停止から数時間がたっています。お願いします、認めてください」

 医師の宣告を倫子は拒絶した。

 「ダメです。嫌です。それを確認したらマサさんが遠いところへ行っちゃうからダメです」

 肩を振るわせ泣きじゃくると医師は駆け付けた佐々木健介らにこう告げたという。

 「奥さんがどうしてもダメなら代理の方でいいから確認してください」

 冷静な医師の口調に倫子は目が覚めたという。

 「それは私の仕事だってハっと我に返りました。涙ふいて、鼻をかんで、確認しました。今から考えると、施設で急変した時には既に心臓が止まっていました。ですから、マサさんを病院に連れて行ったのは、蘇生措置は行ったものの結果的には死亡確認のためだっだのかなぁと思ったりするのです。だけど、私はそれを認めたくなかった…。ですから、本当は13日に息を引き取っていたんです。ただ、私がどうしても認めたくなかった…だから、亡くなった時刻は、14日の午前1時05分なんです」

 倫子の絶叫に応じることはなかったマサの最期。本当の命日は7月13日だった。倫子の祈りと願いが1日後の14日になっていた。ただ、マサは奇跡を起こした。7月21日、東京・港区の梅窓院で営まれた通夜の夜だった。=敬称略=(取材・構成 福留 崇広)

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