ジャニー喜多川社長が死去、87歳 “ジャニーズ帝国”築く

ジャニー喜多川社長
ジャニー喜多川社長

 ジャニーズ事務所のジャニー喜多川(本名・喜多川擴=きたがわ・ひろむ=)社長が7月9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため都内病院で亡くなった。同事務所から発表された。87歳だった。先月18日に都内の病院に救急搬送された。搬送時に意識はなく、その後の懸命な治療も実らなかった。

 1962年に創業し、フォーリーブスや近藤真彦、少年隊、SMAP、嵐ら数を輩出するなど、男性アイドルというジャンルを確立した第一人者として、一代で“ジャニーズ帝国”を築いた。戦後日本の芸能界の発展に大きく貢献。11年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録に認定された。あまりに大きな巨星が散った。

 事務所は、今月1日に救急搬送されたことを発表した際に「今もジャニーは必死に頑張っておりますので、治療に専念することを最優先とさせていただきたく、ご理解くださいますと幸甚に存じます」とした。同日に嵐のデビュー20周年記念展覧会が開幕。松本潤(35)が、声を震わせながら「一日も早く元気に回復してくれることを祈っています」と心境を吐露。救急搬送後、所属全員が病室に駆け付け「ジャニーさん」と回復を信じて呼び掛け続けた。その声、思いは届かなかった。

 高齢になっても第一線に立ち続け、事あるごとに「僕が一番(芸能界で)古いんじゃないか」と誇らしげに語っていた。17年5月に、一部で“死亡説”が取り沙汰されたことがあった。このとき85歳。「他の(同世代の)人と比べると元気ある方。皆さん、僕が死ぬのを待っているみたい。死にませんよ、絶対に。何かあったら、ご報告しますよ」と笑い飛ばしていた。

 最近まで舞台のプロデュースに精を出すなど、87歳まで“生涯現役”を貫いた。5月に10年5~6月の初演から10年目で通算500公演に到達したジャニーズJr.が中心となって上演されたシリーズ舞台「ジャニーズ銀座」には、1か月を超える公演期間の1日も欠かさず劇場に足を運んだ。「僕も毎日勉強」と軽やかな口調で語るなど、プロデュースを手がける舞台すべて、稽古から本番まで毎日、劇場に足を運んだ。最後まで意欲が衰えることはなかった。

 「ジャニー喜多川」という名は一般にも知れ渡るほどだったが、公の場に姿を見せることはほとんどなかった。顔写真を公開したことがあるのは、プロデュース業がギネス世界記録に認定された11年だけ。「ビートルズの4人の中にサングラスのマネジャーが写ってるのを見て以来、タレントと一緒に写真を撮るのはみっともないと思った」と一貫して裏方に徹した人生だった。

 高野山真言宗の僧侶だった諦道(たいどう)さんを父に持ち、生まれは米ロサンゼルス。美空ひばりさんの米公演のコーディネートしたことなどをきっかけに日本芸能界に身を置くことになった。父がプロ野球の球団「金星スターズ」(現千葉ロッテの前身球団の1つ)に関わりがあり、自身が手がけた少年野球チーム「ジャニーズ」がある。この中の4人が、そのままジャニーズ事務所第1号グループとなった。社長という肩書ながら、事務所経営は姉・藤島メリー泰子氏(92)に任せ、自身はプロデューサーとしてタレント育成で希代の才能を発揮した。

 昨年12月から今年1月にかけて、「自身の集大成」として自らの半生を舞台にした「ジャニーズ King&Prince アイランド」を上演。シリーズ9作目の同作で、最後に手がけた“デビュー組”のKing&Princeを主演に据えた。3月には、初めて製作総指揮を手掛けたジャニーズJr.総出演の「映画 少年たち」(本木克英監督)で“映画と実演”を融合させた上映ライブを企画。生涯、類いまれな発想力を失うことはなかった。

 1931年生まれ。32年には在住していたロサンゼルスで五輪を経験。初代「ジャニーズ」がデビューした64年に東京五輪を間近に触れた。来年開催の東京五輪にも並々ならぬ思いを抱いていたが、最後の夢はかなわなかった。

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