【談志を語る】最後の弟子・立川談吉、愛した八重桜の前で聞いた落語と知らされた病状

師匠の形見のコートを着る立川談吉、師匠ゆかりの池袋で独演会を行っている
師匠の形見のコートを着る立川談吉、師匠ゆかりの池袋で独演会を行っている
立川談志(2004年撮影)
立川談志(2004年撮影)

 昭和、平成と時代を駆け抜けた落語家・立川談志は2011年11月21日に喉頭がんのため75歳で亡くなった。落語家初の参院議員を務め、落語協会を脱退し立川流を創設、家元になるなど破天荒な生き方を貫いた。熱狂的なファンを獲得し、多くの落語家に影響を与えた天才だった。ゆかりの人が談志を語る。=敬称略=

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 落語家・立川談吉(37)は最後の弟子として晩年の談志を見てきた。密葬にも唯一出席した弟子でもある。「3年しか一緒にいないので、(兄弟子と比べても)一番師匠のことを知らないですよ」。入門志願をしたのは2008年正月だった。自宅マンションの廊下で待ち続けた。エレベーターがチンとなって扉が開き、憧れの人が出てきた。「あの時の音は崇高な音色がしましたね」。弟子入りしたいという旨を伝えると、部屋に招き入れてくれた。

 ◆「死について考えているんだ」

 緊張する談吉に談志は「今なぁ、死について考えているんだ」とつぶやいた。弟子入りも断られなかった。お礼を言って帰ろうとすると「今日の感激を忘れるなよ」と声をかけられた。すぐ上の兄弟子・平林が二ツ目に昇進したこともあった。「『お前はタイミングがいい』と言われました」。

 談志からは「無駄をはぶけ」と教わった。「例えば『眼鏡あるか』と聞かれて、『眼鏡あります』と答えるのは無駄なんです。『あります』もしくは『ハイ』なんです。『これは噺にも必要なんだ』と言われましたね」。それでもサッと答えられない談吉に談志は諭すように言った。「諦めた。この無駄が良くなるかもしれねぇな」。

 「吐くほど気を遣え」そう言われた談吉は当初は楽屋でも直立不動だった。緊張感が張りつめる。「でもピシッとしているととっさに動けないんです。そんなだと師匠もうれしくないだろうと…」。一計を案じた談吉は常に笑顔を心がけた。「『師匠を好きですよ』と伝え続ける事が大事だと思ったんです」。

 ◆命を燃やして高座に挑む後ろ姿

 談吉が入門してからの談志は病との戦いを余儀なくされた。声の不調を訴えながらも高座に上がる。その姿が目に焼き付いている。最後の高座となった2011年3月6日、麻生市民会館での「長屋の花見」「蜘蛛駕籠」も袖で見ていた。「元気がない人のどこにこんなエネルギーがあるのかと…。変な表現だけど、寿命を燃やしている気がしたんです。命を使って落語をやっている。音源にするとそんなに良くないはず、全盛期の方がいいに決まっている。でも圧倒されてしまうんです」と談吉は語る。「背中が格好いいんです。高座まで歩いて行く姿は何ともいえないですね」。

 その後、3月末に談志は気管切開して声を失った。談吉が知ったのは4月だった。当時、前座の大事な仕事が練馬の別宅にある八重桜の開花時期を知らせることだった。談志は八重桜を愛し毎年、花見をしていた。桜が満開であることを伝え、待っていると車いすで談志はやってきた。長男の松岡慎太郎から病状を伝えられ「実はこういう状態になっています。言わないでくださいね」とお願いされた。

 その1年前の花見で、談志は2階の窓から桜に触れながら落語「孝行糖」をやりだした。隣にいた談吉がお礼を言うと「バカ野郎、桜に聞かせていたんだ」と言われた。そんなやりとりから1年、師匠が噺家として大事な声を失ったことを知った。

 その後は度々、病院を、自宅を訪問した。「師匠に会いに行かなきゃと思ったんです」。好きな本やビデオ、CDを持って通った。「最初は本を持っていったんですが、長時間持っていられなくなって…」。体の負担にならないように、かつて談志が訪れ撮影した外国の写真やパンフレット、好きなバスケのビデオなどに変わっていった。

 意思疎通は筆談だった。「筆談と言っても師匠にとっては大変な労力ですから」。ある時、師匠は「声が出ない。つまらない」と書いた。「こっちは何も答えられなかった。うなずくしかなかったです」。それでも二ツ目昇進の披露目を行うことを報告すると、「出てやる」と応じてくれた。10月だった。「ただただ、ありがたかったです」

 ◆「いつもの姿だなって…」

 11月21日に談志は亡くなった。当日の朝、連絡を受けて病院に到着したが最期の時は席を外した。「毎日介護していたわけではないので、最期は親族だけにした方がいいのかなと思いました」。静かに眠り続ける師匠に実感がわかなかった。「遺体を見ても亡くなったとは分からなかったです」。自宅に運び、死に装束の羽織はかまの着替えを行った。「はかまを履かせるのが難しかったですね。扇子と手ぬぐいを置いて、紋付き姿になったとき、いつもの姿だなって。急にグッときて、そこからは(涙が)止まらなかったですね」。心の奥底に閉じこめていた感情が噴き出てきた。

 23日に落合斎場での火葬も立ち会った。「火葬場(の入口)にはマスコミがいました」。焼き始めたタイミングで、亡くなったことが公になった。

 病状を含めて黙ってることはつらくはなかったのだろうか。「兄弟子たちに悪いなという気持ちはありました。でも誰かに言うことは全く頭になかったです。もっとうまければ裏で兄弟子に伝えることも出来たのかもしれないですが、芸人のくせにウソが苦手なんで…」と明かした。葬儀が終わって一門で集まった際に、面と向かって文句を言われることはなかった。立川談慶が「良く言わなかったね」と声を掛けてくれた。「色々な思いがあって言ってくれたんだと思います」

 ◆受け継ぐもの

 談志から受け継いだものはなんだろうか。「師匠がイリュージョンの話を説明してくれたんですよ。『お前は分かるよな』と言ってくれたし、人にも『コイツはオレのイリュージョンを分かっているから』と言ってくれたんです。イリュージョンはメインになるものではないけれど、受け継いでいきたいです」。

 談吉は談志亡き後に立川左談次門下に移ったが、左談次は18年3月に亡くなり、現在は立川談修の預かり弟子になっている。2人の師の死を経験した。「談志、左談次でも、もっと気を遣えば、もっと快適にすることが出来たのかもしれない。もっともっと会いに行けば良かった。情けない気持ちになりましたね」。

 談吉は13年から真打ち昇進を見据え「談吉百席」をスタート。師匠の「談志百席」へのオマージュとともに、客入りの悪かった池袋演芸場でトリを務めることにこだわった師匠にちなみ、池袋の地で始め、昨年末で30回を数えた。ネタも70席を超えた。今年に入り今までの会場が使えなくなり、会場探しに奔走した。「他の場所にしようとも思ったんですが、池袋で続けることにしました。理由? 家からも近いということもありますし…」。談吉はそう言って照れ笑いを浮かべた。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆立川 談吉(たてかわ・だんきち)1981年12月14日生まれ。37歳。北海道・芽室高出身。2008年3月に談志に入門し「談吉」。11年6月に二ツ目昇進。談志亡き後、12年4月に左談次門下へ。18年7月に談修門下へ。6月8日に第32回「談吉百席」を池袋・GEKIPAで行う。

【特集・立川談志】
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立川談志(2004年撮影)
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