【談志を語る】弟弟子・鈴々舎馬風が知る柳家小さんとの本当の関係

鈴々舎馬風
鈴々舎馬風
落語協会脱会直後、東横落語会で師匠・柳家小さん(右)とトークショーを行った立川談志(1983年撮影)
落語協会脱会直後、東横落語会で師匠・柳家小さん(右)とトークショーを行った立川談志(1983年撮影)

 昭和、平成と時代を駆け抜けた落語家・立川談志は2011年11月21日に喉頭がんのため75歳で亡くなった。落語家初の参院議員を務め、落語協会を脱退し立川流を創設、家元になるなど破天荒な生き方を貫いた。熱狂的なファンを獲得し、多くの落語家に影響を与えた天才だった。ゆかりの人が談志を語る。=敬称略=

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 落語家・鈴々舎馬風(79)=落語協会最高顧問=にとって談志は、柳家一門の兄弟子にあたる。「あんな意地悪な人はいないよ。どれだけ悪いことしたか…。ずいぶん助けたねえ。ケツをオレが持つんだから」とニヤリと笑った。

 馬風が5代目・柳家小さんに入門してからの長い付き合いだ。当時、談志は二ツ目。小ゑんを名乗りすでに売れっ子だった。「師匠をしくじると、『(家に)掃除に来い』って言われる。兄弟子のために、ほとんどは掃除して、門から玄関までの簡単のところを残しておくの。(談志は)遅くにやってきて(冬だから)コート着てマスクして手袋してなでるように掃いていたら、2階からおかみさんが『小ゑん!帰れ!』って」。

 ◆師匠をヘッドロック!?

 それでも、小さんは談志をかわいがった。「ウチの師匠は談志さんをかわいがっていたね。忘年会で酒を飲んでいると、談志さんが師匠をヘッドロックして、『この野郎』って頭を平手でペチペチたたくの。師匠も『よせよ~』『やめろよ~』って言うだけで全然怒らない。するとおかみさんが出てきて『談志! ウチの父ちゃんに何するんだ』って尻をけとばす」。端から見ても不思議な師弟関係だった。「何をやってもかわいいから怒らない。そうすると談志さんも甘えちゃって駄々っ子みたいだった」。馬風は空手経験者ということで、師匠・小さんと空手の型の手ほどきをしたことがある。すると弾みで師匠を蹴飛ばしてしまった。すると「師匠を蹴飛ばすとは何事だ」と激怒された。「オレは内弟子で一緒にいたのに。談志さんがうらやましかったね」。

 1978年にいわゆる落語協会分裂騒動が起こった。落語三遊協会が設立するときも、馬風は談志から誘われた。小さんの息子の6代目・小さん(当時・三語楼)とともに談志と一緒に移籍することが決まっていた。「当時は談志さんの子分で世話になったからね。でも急に『あの話はなかったことに』って」。設立直前で談志が移籍を取りやめ落語協会に残ったため、未遂に終わったが同士のような存在でもあった。

 その後、談志は、真打ち昇進試験に弟子が落とされたことをきっかけに、83年に小さんが会長を務めていた落語協会を飛び出し、立川流を創設し家元になった。師弟の断絶はメディアの格好のネタになった。

 ◆断絶した師弟関係の修復に動くも…

 馬風は、関係修復に動いた。「談志さんが(落語協会を)飛び出した後、オレとマムシ(毒蝮三太夫)で何とか間に入ろうと…。新宿のマンションに行って『師匠は怒っちゃいないです。兄さんがわびに行けば終わるんです』と言ったら、『お前の顔を立てよう、オレは行くよ』って」。翌日に東京・目白の小さん邸に行くことを約束した。

 だが翌日、談志は来なかった。「昼になっても来ないので電話していたら、寝ていて『もういいよ、なかったことに。勝手に怒っているんだから怒らせておけばいいよ』って」。状況を説明すると小さんは「今日限り(談志を)破門にする。みんなに言っておけ」と伝えたという。

 「朝に『談志さんがわびに来ます』と言ったとき、師匠は『おお、そうかい』って本当にうれしそうな顔をしていて、機嫌が良かった。ウチの師匠は待っていたと思う。談志さんが行けばいつでもOKだった。来るモノは拒まずだから絶対に許した」。馬風は当時を振り返った。

 蜜月だった談志―馬風ラインも崩れるときが来た。談志の弟子・談生が落語協会に復帰したいと馬風を頼ってきた。談志の承諾を得てきたということで、師匠・小さんに相談したところ「オレが預かるわけにはいかねえから、お前が預かれ」と言われ、談生は馬風門下で鈴々舎馬桜を名乗り落語協会に復帰した。

 その後、新宿末広亭の楽屋にいる馬風の元へ、談志から電話がかかってきた。「てっきりお礼の電話だと思って出たら、『オレが破門にしたヤツを引き取るっていうことは、分かっているなこの野郎、商売できなくしてやるぞ』と言われて。カーッと来て『誰に口聞いてんだ。薄バカ野郎。銀座あたりウロチョロするなよ、何が飛んできてもボディーガードしねえからな』って返しちゃった」。それからは会えば世間話はするものの、距離が出来た。最後に会話したのは、2010年、橘家円蔵の夫人の葬儀だった。「談志さんがお付きもなく、一人でやってきたんだ」

 ◆優しさと強がりと…

 馬風にとって談志はどういう存在か。「2人きりだといい人。こんないい人いないってくらい。でも1人入って3人になっちゃうと、悪い、悪い」。若い頃、2人で大阪に行きツインのホテルで同部屋になった。「オレは寝相が悪いから掛け布団とか蹴飛ばして。それを談志さんが掛けてくれるの。オレのいびきがうるさいから黙って耳栓して…」。

 結婚式、真打ち昇進、襲名披露も全部、談志が仕切ってくれた。「恩人だね。スポンサーを見つけると、みんな連れて行く。紹介してくれるんです。素晴らしいところもあるんです。お金に関してはケチだけど…。本当にいい面と悪い面が極端で…」と馬風は笑う。

 馬風は襲名前、柳家かゑる時代、真打ち昇進くらいから、「会長への道」を手がけた。先輩たちの悪口などをたっぷり含ませ、自身が会長に上り詰めるまでを語る立志伝でもあり爆笑を呼ぶ代表作となった。真っ先に認めてくれたのも談志だった。「談志さんが『アレ、いいよ。自分の生き様をしゃべるそれが面白いから』って言ってくれたんだよ」

 馬風は兄弟子・談志を思う。「当時から10年先のことを常に考えていた。その時は『何考えてんだか』と思ったけれど、それが実現する。手塚治虫先生の漫画みたいだった。『兄貴の言っていることは時代より早すぎます』と言ったら『そうかい!』って照れていたけれど…」。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆鈴々舎 馬風(れいれいしゃ・ばふう)本名・寺田輝雄。1939年12月19日生まれ。79歳。56年に5代目・柳家小さんに入門し「小光」。60年に二ツ目昇進し「かゑる」を名乗る。73年に真打ち昇進し、76年に10代目「馬風」襲名。06年6月に落語協会会長に就任。10年6月に会長を退任し最高顧問に。

【特集・立川談志】
鈴々舎馬風
落語協会脱会直後、東横落語会で師匠・柳家小さん(右)とトークショーを行った立川談志(1983年撮影)
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