落語家・立川談志は平成23(2011)年11月21日に喉頭がんのため75歳で亡くなった。落語家初の参院議員を務め、落語協会を脱退し立川流を創設、家元になるなど破天荒な生き方を貫きカリスマ的な人気を誇った天才の死は親しい知人や弟子にも伏せられ密葬となった。同年3月に気管切開をして声を失った談志の闘病を支えた家族や弟子らの証言から、談志さんの半生を振り返る。(取材・構成=高柳 義人)
「談志が死んだ」。回文の見出しがスポーツ報知の1面に載ったのは11月24日のことだった。亡くなったことは伏せられていたが、通夜を終え、23日に落合斎場で荼毘(だび)に付されている最中に通信社が死去を報じ明らかに。葬儀が終わってすぐ、談志さんの長男で所属事務所「談志役場」の社長・松岡慎太郎と長女・松岡ゆみこ(現タレント)が会見に応じ、テレビのニュース、ワイドショーでも報じられた。
多くの弟子を抱え、芸能界にも交友範囲の広かった談志の最期をみとったのは家族だけだった。「葬儀が終わった翌日くらいに『葬儀は親族で済ませました。後日お別れ会を開きます』としたかったんです。火葬が終わるまで遂行できればよかったんですが…」。慎太郎は当時を振り返った。
その年の3月に談志は、声を失った。がんが進行することで呼吸が困難になっていた。娘のゆみこが談志に尋ねた。「喉に穴を開けないと、苦しくて死んじゃうんだよ。声を失うなんて神様はひどいね」。すると談志はこう言った「オレらしくていいよ」。
急きょ入院し、翌日に気管切開の手術を行った。その直前、談志は酸素マスクを着けながら落語を一席やった。「蜘蛛駕籠(くもかご)」だった。若き日、柳家小ゑん時代の談志が東横落語会で演じ、評論家・安藤鶴夫に「若き天才現る」と評された演目だった。声帯を摘出することは断固として拒んでいた談志だったが、気管切開のため話せなくなった。
ほどなく、談志の要望で自宅での介護が始まった。則子夫人、慎太郎、ゆみこと家族全員が、気管切開した穴から管を入れ痰(たん)を取る作業を習得、胃ろうとなり、交代で24時間の介護が始まった。時には出血を伴い、救急車で病院に搬送されることもあった。そして、この状況をどうやって弟子に伝えるかという問題が持ち上がった。=敬称略=
◆立川 談志(たてかわ・だんし)本名・松岡克由。1936年1月2日生まれ。52年、5代目・柳家小さんに入門し「小よし」。54年に二ツ目に昇進に「小ゑん」。63年、真打ち昇進で「立川談志」襲名。日本テレビ系「笑点」の初代司会者。71年、参院選(全国区)で当選。75年に沖縄開発庁政務次官に就任も、36日で辞任。83年、落語協会を脱会し落語立川流を設立し家元となる。生前に「死んだら見出しは『談志が死んだ』で頼む」と言っていた。
(2019年4月23日、紙面連載「あの時より)
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