【平成名勝負】1989年日本シリーズ 泣けたよキヨシの有終弾

89年、近鉄との日本シリーズ第7戦で代打本塁打を放ち、両手を上げて喜ぶ巨人・中畑
89年、近鉄との日本シリーズ第7戦で代打本塁打を放ち、両手を上げて喜ぶ巨人・中畑

 平成も残り14日。スポーツ報知では、その時代にプロ野球を現場で取材した記者による「平成名勝負」をweb報知と連動して紹介していきます。第1回は平成31年間のほぼすべてを野球記者として過ごした洞山和哉記者による、巨人が3連敗からの4連勝で逆転日本一になった平成元年(1989年)の日本シリーズです。

 ◆1989年10月25日 日本シリーズ第4戦(東京D)

 近鉄000 000 000=0
 巨人100 003 10x=5

 (近)●小野、池上、木下、山田―光山、山下
 (巨)○香田―中尾

 ◆同29日 日本シリーズ第7戦(藤井寺)

 巨人010 303 100=8
 近鉄000 111 002=5

 (巨)○香田、宮本―中尾
 (近)●加藤哲、小野、高柳、村田、吉井―光山、山下
 [本]駒田、原、中畑、クロマティ(以上、巨)、真喜志、村上、大石(以上、近)

 昭和の時代がそうであったように、平成時代のプロ野球もまた「巨人の時代」になることを予感させた平成元年の日本シリーズ。流れを変えた加藤発言、香田の快投などドラマが満載の7試合は、大舞台を何度も取材してきた記者にとっても“涙、涙のシリーズ”になった。

 第4戦。香田が猛牛打線を完封して、歴史を変える歯車を動かした。試合後、トレーナー室にいた香田を初老の男性が訪ねてきた。3年前の秋、香田の右肩を手術したフランク・ジョーブ博士だ。87年には練習生の身分にまで落ちていた投手を奇跡の復活に導いた医師と、つらかったリハビリを乗り越えた若者の熱い抱擁に、周囲ももらい泣きした。

 勝負が決した第7戦の6回。第5戦で満塁ホーマーを放って不振から脱出していた原辰徳に2ラン、さらに代打で出た中畑清にホームランが飛び出した。

 中畑には特別な思いがあった。私がこの世界に入ったのも、中畑が巨人に入団したのも76年。つまり同期生だ。一緒に飲んでは、将来を語り合った。キヨシは入団3年目まで1軍からなかなかお呼びが掛からなかったが、それでも毎日、多摩川で大声を張り上げて、誰よりも元気にプレーし続けた。そのキヨシがシリーズ前に引退を表明。6回に代打で“惜別のアーチ”を打ってホームインしたキヨシは、ベンチ裏で誰彼となく抱きついて号泣した。

 スタンドでは、今は亡き仁美夫人(12年に他界)がハンカチを目に当てていた。キヨシ入団1年目の夏、駒大時代から交際していた仁美さんとの結婚のニュースを書いたことを思い出した。キヨシは最愛の夫人の前で、憧れの長嶋茂雄さんのようにキメてみせた。試合後、日本一のウィニングボールはキヨシの手の中にあった。14年の現役生活、これ以上格好良く、まぶしかったシーンが他にあっただろうか。(洞山 和哉)

 ◆3連敗から4連勝…平成元年の日本シリーズ

 8年ぶりの日本一奪回を目指す巨人と、前年の「10・19」の無念を晴らして大舞台に進出した近鉄が激突。巨人は第1戦から3連敗したが、試合後に加藤哲郎投手が言い放ったとされる「巨人はロッテより弱い」発言(実際には話していない)に巨人ナインが発奮。香田勲男が猛牛打線を完封したのをきっかけに、第5戦では不振だった原辰徳が19打席目に満塁弾を放って復活、勝負を決めた第7戦ではこの年限りで引退した中畑清がアーチを放つなど4連勝。逆転日本一の座に就いた。

 ◆洞山 和哉(ほらやま・かずや)1952年8月1日、三重県生まれ。66歳。76年、報知新聞社に入社。40年以上の記者生活のほとんどをプロ野球担当として過ごし、巨人、中日、西武番の他、巨人戦のコラムなどを担当した。

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